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第157回

 因果応報。最近この言葉の意味が阪神の猛攻ぶりも含めて身に沁みるわけなのだが、昨今の政治のショー化。来るべくして来た事態とは言え、呆れるやら半ば納得するやらで悔しいけれど面白い。叩いてほこりの出ないセンセイなんて居ないとは誰しも思っていたことなのだが、鈴木ムネヲ氏の一連の疑惑がここまで波及して政界を騒がすとは誰が予想していただろうか。マスコミの事情通を除いて。誰でも自分が好きなように使える(本当は使ってはいけないのだが)金を握れば、どうしたって公明正大な使い方など出来るはずがないのだ。ちゃんと何らかの職員に給与として払っていたのならばそれはそれでいいではないかと俺なぞは思うのだが皆様は如何だろうか。自宅?の家賃だかに使うのは全然ダメだが。

 さて、何故に今この文章を「因果応報」という言葉から書き始めたかといえば、俺に近頃とみに旧知の人々からの連絡があるのだ。これを因果応報という言葉で表現するのにはいささか語弊があるのだが、一度夜逃げして隠居した身に旧知の人々が最近の俺について聞きたがって下さる度に、俺は自分の身勝手さと無精さに恥じ入るのだ。捨てた、と言うわけではないが写真を通じて知り合った皆さんを自分ははからずも裏切ってしまったことは認めざるを得ない。今の住まいに引っ込んでからはもうこちらからの連絡は殆ど途絶えさせてしまっている人が多いのだ。それをわざわざつてを頼って俺に連絡をつけて下さる人々。そういう場合の労力を俺は知りすぎるほど知っているから、そうした連絡が入るたびに本当に申し訳なく、これまでの俺の所業が罰せられているような気になるのだ。それが因果応報。

 生きていたならいつかは逢える、という演歌しかり、この空はひとつというクサい台詞またしかり。確かに人間、地球のどこにいても生きてさえいればまた相見える可能性がある。同じ大気を呼吸し、ひとつの太陽を浴び、そしてこのインターネットという網を通じても確かに一度知り合った人とは再び出会う可能性がある。常にその可能性を思いながら、事あるごとに気を遣って生きてゆくのは窮屈かも知れないが、やはり再び会いにくいという人間関係を作るという事を俺は再び繰り返してはならないと思うのだ。

 別れたくて別れる人たち。別れたくないのに別れなければならなくなる人たち。男女の間でなくとも片思いや両思いと呼ぶべきような状況がある。こちらが求めれば求めるほど相手を怯ませる人間関係はしばしば経験するところであるし、逆に相手の厚意が受ける方にとっては疎ましいものに感じられる事もままある。大概の場合、そのような間柄はすぐに立ち消えてしまうものなのだが、それが仕事やら何かで強制されるのは最も恐るべき事態だ。営業なぞという仕事に就けばもう嫌なお客の時ほど満面の笑顔で、早く話をまとめたいものだから極端な高価格でお断り、または思い切り値引きしてしまうし、俺の前職の時にはそれこそフリーマーケットでも売れなさそうな銀行の景品のラップやらホテルの洗面台からくすねてきた石鹸を「厚意で」押しつけられたりしてかなり閉口したものだ。

 俺は、今更ながら、そうした打算的な関係でなくおつきあいを続けてこられた人たちに対して驚きにも近い感謝の念を覚えている。感謝という言葉を使うのが憚られるくらいの胸のときめきを感じている。こう書いたところで昔の境遇に戻れるでもなし、やはり疎くなってしまうのは仕方がないところなのではあるが、俺はこのように思っているのだということをまずはお伝えしたいと思うのだ。

 夜逃げをする前に電源を切って、以来2年ほど触る事が出来なかった携帯電話の電源を入れてみた事がある。時代遅れのデザインに一抹の懐かしさを感じながら電源ボタンを長押ししたところがうんともすんとも言わず。バッテリーは放電しきっていたのだった。そこにはかなりの人数の電話番号が記録されていたのだが、もはやそれを取り返す手段はなし。俺はその携帯電話を押入の元のところに戻し、自分のした事の重みを再び感じたのだった。当時は逃げる事で精一杯だったので、そこに入っている電話番号の重みにすら気を回す事が出来なかったのだった。しかしそこに刻まれていた人々の名を俺は生涯忘れる事は出来ないだろう。

 折しも春。色気すら感じられる、卒業証書を持った小学生。そしてもはや酸いも甘いもかみわけたような顔のフレッシュマン。そうした光景を浮かべながら書いたらこんな話が書けた。
 
  


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