第145回

  世の中、ますます露骨なエロが跋扈するようになったなあと思う今日この頃。いつの間にかヘアーは解禁になってしまったし、青年漫画雑誌には性交シーンが何の気後れもなく描かれている。また、一時期物議をかもした電車内の中吊り広告。アレも一時期ほどのエグさはないが相変わらずのエロさをまき散らしている。俺が今中学生だったら電車の中でカウパー氏のお世話になっていたに違いない状況が今目の前にある。
 
 確かに何でも知りたいと思うのは人間の常で、マスメディアのための手段が発明されればそこに様々な知識をのせて多くの人々に流布されるのは至極当然の事である。そしてその知識の中にエロに属する事が含まれるのもまた当然の理ではある。思えば人間、新技術が出ればすべてエロ方面に応用してきたではないか。手書き文字→手描き絵画→印刷文字→写真→写真印刷→映画→録音された音声→ビデオ→(ダイヤルQ2や伝言ダイヤル類)→レーザーディスク→(エロスゲーム)→インターネット(携帯電話によるネット接続も含む)→DVD。この進化の過程に異を唱える方もあるかも知れないが、まあ大方そうした新技術はエロの力を借りて普及してきた事は認めざるを得ないだろう。20年前には3〜40万円していたビデオデッキが今ではどの家庭にもある。この常識にエロが関与しているのだという話を読者の方々も一度は耳にした事があるはずだ。いかがわしいポルノ映画館に行かずともエロい映像を家庭で手軽に鑑賞出来るという事は一家の大黒柱の財布の紐を緩くするのには十分すぎる理由だっただろうし、またインターネットの普及初期(1995〜8年頃)にはそれこそインモラルな、今のプロバイダーやレンタルサーバーには置けないようなナイス(?)な画像が垂れ流し状態だった。(最近はデジタルカメラの普及によってまた違う意味でナイスになって来ているが)そして最近ではPCの性能の向上によりリアルになってきたエロスゲームしたさにPCを新調する人々も多いやに聞く。
 
 かほど左様に男達はメディアにエロを乗せる事に腐心してきた訳なのだが、最近どうもエロが簡単に手に入りすぎるような気はしないだろうか?ビデオデッキの再生ボタンを押し、キオスクで雑誌を買い、マウスを左クリックするだけで訪れるエロの洪水。男という生き物は視覚だけで十分にエロを堪能出来る人種だからもともと簡単にエロに触れられる訳だけれども、最近のメディアはエロに至る過程を軽視しているような気がしてならないのだ。平たく言えば「そのものズバリ」過ぎ。いや、勿論自分もそういったモノは大好きなクチなのだけれど、男26歳、既婚。もう少しイマジネーションをさせてくれないと萌えない、否、燃えないのである。中学生の頃には胸を躍らせて見たコンビニのエロ雑誌コーナーにも何の感慨も覚えなくなってしまったし、大概のものを見ても簡単には「膨張」しなくなってしまったのだ。これも偏に世の中全体がメディアの力によって「薄められたエロ」にあまねく覆われているからだとここで断言したい。これはある匂いにだんだん慣れてしまうと感じなくなる状態に似ている。現代日本の大気には「エロ」という名の香水が混ぜられており、それをずっと嗅いでいる我々は慣れてしまっている状況なのだ。そこでエロを具体的に感じる為にはより強力な「エロ2(名前はどうでもいいが)」という香水が必要になるのだが、もはやそれは通常の手段では手に入らない。一方、もともとエロが混和されていない空気の中で暮らせばどうだろうか。これはもう通常の「エロ」で十分な満足が得られる事だろう。
 
 エロ、それは即ちerosである。生(性ではない!)を希求する心なのである。それがそこら中に転がっているこの時代が殺伐としないわけはないと思うのだ。生きるという意味がありふれて、電車の中にぶら下がるこの時代。最近の女子中高生のセックスアピールを見よ。簡単に何本も銜(くわ)え込む漫画を見よ。もはや教え子を犯すセンセイを責める気にもならない。批判を恐れずに言えば至極納得出来る行為だ。そうした年齢で生殖行為をする事は生物学的には大いに結構なことなのだから。
 
 露骨なエロの跋扈。実行に移さなくても感じられる生の行為の氾濫。それは誰もが死に急がされる現代を象徴しているとは言えないだろうか。

  


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