最近、職務の都合で小中学校に出入りする事が多いのだが(まあいつもの事だが)、その校内の壁に貼られている壁新聞の内容には驚かされるものがある。壁新聞と言っても生徒が模造紙に自ら書くものではなくて、「少年写真新聞」やら「保健某」といった類のきちんとした刷り物なのであるが、その表題が今、凄い事になっているのだ。「もし、コンピューターが止まっ(フリーズし)たら」とか「インターネットエクスプローラーの使い方」などといったIT(この語は自分では書きたくないものがあるが)関係の記事が目白押しなのである。「コンピューターは突然理由無しに操作できなくなる事があります。そのような時にはCtrl+Alt+Delのキーを同時に押しましょう。」などと平然と書かれているそれらの新聞を見るにつけ、俺は仕事も忘れてその場に立ちつくしてしまう。隔世の感?否、ただそれだけでは語り尽くせない違和感を覚えるのだ。
カラフルな紙面に、いかにもPCは簡単だ、そして授業で全員に分からせなければならないのだ、というコンセプトで書かれるそれらの御託たちはいかにも新世紀を感じさせるものなのではあるが、ちょっと待って欲しい。いくら子供たちに手際よくPCを操作させるのが目的とはいえ、もう少しPCの構造や歴史、そしてOSの存在意義を説くのが先なのではなかろうか。まあ俺自身は学校でのパソコン教育が本格化するその前年くらいに大学を卒業してしまった世代なので、今の学校でどのような形でパソコンを教えているかという事に関しては憶測の域を出ないのだが、にわか知識を身につけた中年の教員が仕方なく教えているという図がどうしても浮かんできてしまう。さる統計でも教員のうちでPCを操作出来、人に教えられる者よりもそうでない者の方が多かったそうではないか。教える側が分からない事をどうして他人に教える事が出来るだろうか?それも税金を使って。そして先述の壁新聞の業者もほぼ公費で食っているわけだ。入札や談合(?)も抜きにそうした市場を寡占できる商売は案外面白いのかも知れない。バカ売れはしないだろうが安定したいい商売だろうと思う。多少高くても売れるだろうし。
話が逸れた。まあ要するに、壁新聞にそのような基本的な事を書いて掲示しなければならないほど学校でのパソコン教育は貧困なのかと問いたい訳なのである。こういった物言いは初心者を軽視しているとのそしりを受けるかも知れないが、フリーズへの対処なぞは電源の入れ方と同時に授業の中で教えておかなければ授業が進められないのではないだろうか。また、ブラウザの使い方やフロッピーディスクの扱い方もまた然り。これらをわざわざ壁に貼っておくと云う事は、「パンツを穿かないで出かけないようにしましょう」とか「給食は素手で食べないようにしましょう」と言っているのとレベル的には一緒だと思うのだが如何だろうか?
また、特定のソフトの利用を奨励するような記事も鼻についた。さすがに紙面に載せられている様々な写真の中の商品名やロゴは伏せられているのだが、見る人が見れば分かるものばかり。「ワープロソフトに写真や文章を取り込んで見やすい資料を作りましょう」という表題の新聞にはあからさまに「Word」が使われていたし、「スライドショーもパソコンで出来ます」という記事には「PowerPoint」が使われていた。(一応申し添えて置くが、この文章もWordで書かれている。ウインドウの下に出る文字数がとても見やすくて気に入っているのだ。重いけど。)俺の浅い知識によれば、スライドショー用のソフトというのはまずPowerPointしか選択肢がないのではないかと思うのだがどうだろうか?それをあえて使いなさい、という考えを学校に持ち込むのはNHKでCMを流すくらいマズイ事だと思う。北辰テストの様に駆逐される日が来なければよいが。それからMacユーザーだから言うのではないが、パソコン=DOS/Vというイデオロギーのまま教え続けるのもマズイ。俺の見た限り、全ての紙面でCOMPAQやらDELLのマシンが使われており(国産マシンを出さないところがせめてもの良心か)、Macが登場していたのは件のフリーズ時の再起動の方法の所のみだった。今後、学校が大きな市場に成長していった際には問題としてクローズアップされる事になるだろう。
まあ、パソコン黎明期ならともかく、誰もがGUIのOSの恩恵を享受できる世の中にあってはそのような教え方でも構わないのかも知れない。最悪キーボードが早く打てるようになりさえすれば「パソコンが使える」という事になるのだから。そのうちパソコンの方が人間に歩み寄ってくる時代がやってくる。現に携帯電話でメールやら銀行の決済が出来る時代になっているではないか。それまでの肩慣らしなのだと言う事にして筆を置く事にしよう。
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