9月15日敬老の日は接待稲刈り(?)、続いて16日は実家の引越しというわけで全く休み気分を満喫できない昨今、この文章は祝日15日の夕方、誰も居ない社内で書かれています・・・あ、今5時になった・・・・。昼間からのビールと、明日の早起きでものすんごくアンニュイなんですが、何しろ今を逃すと時間が無いような気がして、何だかお節介なまでに多い常駐ソフトのおかげで起動が非常に遅いTHIN○PA○を起動した次第。いや、何か違いますな。仕事でいつも使っているとはいえ、Windows版のワードで書くコラムは何だか勝手が違う。場所が会社だから?それともキーストロークが浅いから?まあ何にしてもいつもとは一味違ったコラムが書けそうなカンジではありますな。
さて、あえて書くまいと思っていたのだけれど。例の亜米利加での爆破?事件。いつもはラジオ派な俺なんだが、たまには渡辺真理嬢の顔でも見るかとニュースステーションを見ていたわけなんよ。その日は。そしたらあの衝撃映像。「LIVE」の文字を見てこれは海外の事ながらヤバイと思った俺はもうその日は深夜1時ごろまでテレビにかじりついてしまいましたわ。翌日、多くのアジア圏の人は寝不足だったと思う。何しろ地球のほとんど反対側での出来事だったから。その映像・事件に関する感想はマスコミで語り尽くされているし、読者の皆様もそれぞれに何かを感じ取っておられるだろうからここではあまり語らないことにするが、俺の脳裏に浮かんだのは「何故、自分が死ぬと分かっているのにあのような事が出来るのか」という疑問であった。神の存在が強大だからか?それとも組織のリーダーのカリスマ性が強いからだろうか?いずれにしても自分の死をもって何かに捧げようという意志がある人間が同じ地球上に生きていたという事に対して、俺は不謹慎な物言いになるが畏怖の念を覚えた。あの事件を日本の戦中の特攻に喩えた人が居る。日本の第二次大戦当時、天皇は神だった。その神なる存在の為に自分を無に帰することが出来るような教育を当時の日本人は受けていた。それと同じ事が彼らテロリスト集団やその国家の中で行われている事は想像するまでもない事であるが、天皇が人間になった現代の日本人にその心境を察するのは難しいことだ。感じられるのはただ恐れのみ。
翻って自分たちの言葉遣いを考えてみるに、我々はしばしば「死ぬほど〜」という接頭辞を無意識に用いている。あの事件以後、俺は本当に死ぬことなぞ大してないのだ、という思いを新たにしているのだが、「死ぬほど飲む」「死ぬほど好きだ」などのくだけた言葉遣いの中に死への意識はいかほど含まれているのだろうか。いや、殆ど無いだろう。「僕は死にましぇん!」などと叫んでいたトレンディードラマ(まず死語だが)が懐かしく思い出されるところだが、あれしきの事(?)も実際には出来ないことが殆どではなかろうか。そのように考えると、彼らテロリストは本当に「死ぬほど」という接頭辞がふさわしい人生を送ったと言えるだろう。そう思うと軽々しく「死ぬほど」とは言えないな、という気がしている昨今なのである。本当に「死ぬほど」と言える人生が幸福なのか不幸なのは分からないけれども、某国の市民がそのテロの成功に接して大喜びしている映像を見るにつけ、どこに生まれてどんな教育を受けようともそれぞれに幸福や歓びというものは在るものなのだなと複雑な心境にさせられるのだ。正義は人の数だけあるのだということを信じざるを得ない事件であったと言えるだろう。
また、本当に死ぬつもりになれば人間大抵のことは出来そうだというのも今回の事件に接した俺の率直な感想だ。本当に死ぬつもりになる為には相当のモチベーションや信心が必要で、もはや日本でこの年齢まで暮らしてきた俺には不可能なことだとは思うが、あの世界貿易センターを倒壊させたのは8人だか10人だかの「死ぬほど」魂なのだ。それだけの魂が4000人以上の魂を死に追いやることが出来たという事実。この世に生を受け、様々な境遇におかれる我々人間。その与えられた肉体をどのように鍛えられた魂で動かすか。己の肉体をも粗末に扱うことが出来る人間の魂の力。この世で最も恐ろしいのはやはり人間だった。
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