恍惚コラム...

第121回

(筆者注:筆者は以前、確実にカメラマンを目指していた人間であります。このことをお含みになって読んでいただければ幸いです。この文章は写真愛好家・カメラマンにとって不快な内容を含みます。そのような文章を読みたくないと思われる方は直ちにブラウザを終了、あるいは他のページに移ってください。なお、この注意を無視してお読みになった上での苦情は受け付けませんのでご注意ください。これは筆者自身への戒めの意味を込めた文章であります。何卒ご了解下さい。)


連載「カメラマンにならないためのいくつかの方法」
(6)いい人のなり損ないがカメラマン

 この表題は、私が高校生の頃に読んだ―書名は忘れてしまったが―カメラマンになるための指南書の中にあったものからそのまま拝借したものである。お気づきの方があれば、あるいは著者の方がもしこれをお読みになっていたら素直に陳謝したい。しかしこの五七調の語呂の良さといい、言っている事の鋭さといい、この言葉は私の脳裏の中で一定の座をこの10年近く占めているのだ。だから私は敢えてこの一節を引用させて戴きたいと思う。

 さて、その「いい人」とはどのような人の事を指すのであろうか。曖昧な概念なのではあるが、読者の皆様の中には既に一定のイメージが出来上がっているだろうと思う。それは恐らく、「お人好し」―この稿の中では、少し気の弱い、我を発揮できないそんな「お人好し」=「いい人」として話を進めさせていただくことにしたい。いい人、と言っただけでは何か消化不良だと思うからだ。例えば我が強く、自分の言いたい事をはっきりと表明できる人が老人に席を譲ったりするのを見てそれをお人好し、と言えるだろうか。それは単に勇気ある、気持ちのいい人間と呼ばれるべきだろう。それではこの稿が語ろうとするいい人像とずれてしまうので、これ以降は「いい人」を「お人好し」と言い換えて書き進めることとしたい。

 そんなお人好しを自認する人は恐らくかなりの数に上るのではないかと思う。私自身も含め、殆どの人間は「こんなに人の役に立っている」「こんなに人の面倒を見ている」と思い込んでいるものだ。はたから見れば何故この人がお人好しだと自ら言えるのか信じられないような人までもがお人好しを主張してやまない。かほどさようにお人好しである事、ひいてはお人好し的な立ち居振る舞いは人間関係を円滑に進める上では大切な事なのだ。しかし謙遜の意味で自分がお人好しであると言うのは寂しい事だと私は思う。痩せているのにまだ太っていると言い張る婦女子や、成績が良いのに悪いふりをする学生なぞはまだ可愛いものだが、腹黒い自称「お人好し」は計算尽くで他人を利用できる人種だ。そしてカメラマンの業界にも、若輩者には峻別できない真性お人好しと、仮性お人好しとが全く同じ顔をして存在しているのである。

 アシスタントを辞められない。無理な仕事を安く請けてしまう。細かい仕事でも念入りにしてしまう。資機材・感材費が嵩んでいるのにクライアントには笑顔で接する・・・。真性お人好したちにとってカメラマン業界とはまさに生き馬の目を抜く修羅場だ。自分という人間が気に入られなければならないのは良く分かっている。だから真性お人好したちは天性の献身性をもってクライアントに尽くそうとする。しかしそのままではただの便利屋で終わってしまう事は誰の目にも明らかだろう。一件の客のいいように使われていては他に対する営業活動が疎かになるし、その現場(会社)の事情しか知らないということになれば他の客に接する際のハッタリも効かなくなる。固定客に対して決まった写真ばかり撮っているということになれば前述した「引き出し」も少ないままだ。そうして「いい人」たちは先細り、伸び悩み、(アシスタントを円満に辞められずに消えてゆく者もあり)カメラマンを辞めないまでもビッグネームになることは叶わないのだ。

 このように書くと「悪い人」(敢えてカギ括弧を付ける)の方が出世するように思われるかも知れない。・・・否、まさにその通りなのである。ただ誤解されては困るのだが、出世する人たちは皆仮性お人好しなのである。本当に悪さを剥きだしにしたままでは、そしてお人好しに見えなければフリーランスの業界は当然渡っていけないから、出世する人たちは巧妙に、まさしく本人以外には分からないようなやり方で仮性お人好しの仮面を被っているのである。カメラマンたちがふとした瞬間に見せる我の強さ、融通のきかなさ、超個性的性―これらは全てその仮面に収まりきらなかった額なり顎なりの皮膚の部分なのである。

 その「収まりきらなかった額なり顎なりの皮膚の部分」の効用について語るにあたり、アシスタントの段階でお人好しぶりを露呈させてしまった私は憶測でしか語る事が出来ない。だからこれについて多くを語る事は避けようと思う。だが少なくとも言える事としては、そう言った面の逞しさこそが人をしてカメラマンにさせるのだという事だ。他人を押しのける力。職業として写真を行ううえでのコスト感覚。お人好しには真似の出来ないシビアさがフリーカメラマンには必要なのである。

 いい人を曲げてまでカメラマンになる事はないし、土台無理な話だ。そしてカメラマンになってしまう人間は、「いい人のなり損ない」。どちらを選ぶかは読者の皆様次第だ。

 冒頭に述べた本の中で、或る「いい人」は喫茶店のマスターになっていた。詳しい経緯までは失念したが、その人が「いい人のなり損ないがカメラマンなんですよ」と言ってその章が終わっていたように思う。繰り返しになるが、蓋し名言である。
(来週に続く)

  


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