第120回

(筆者注:筆者は以前、確実にカメラマンを目指していた人間であります。このことをお含みになって読んでいただければ幸いです。この文章は写真愛好家・カメラマンにとって不快な内容を含みます。そのような文章を読みたくないと思われる方は直ちにブラウザを終了、あるいは他のページに移ってください。なお、この注意を無視してお読みになった上での苦情は受け付けませんのでご注意ください。これは筆者自身への戒めの意味を込めた文章であります。何卒ご了解下さい。)


連載「カメラマンにならないためのいくつかの方法」
(5)生き様としての、ハッタリ 第二回

 今のご時世、いくらフリーターが幅を利かせているとは言え、まだまだ日本人の価値観の中から終身雇用への希望や会社への帰属意識は拭い去れていないと私は思っている。現在の仕事の中で、私は祖父といってもおかしくない年代の人たちと世間話をする機会が多いのだが、彼らの話題としては最近の若者に対する愚痴がやはり多い。そんな中で、先日聞いて印象的だった言葉にこのようなものがあった。「3年勤めて辞めなければ本物だ」・・・この言葉に、かつてあのヤクザな業界(何の事かは言わずもがなであろう)に籍を置こうとしていた私は愕然とした。やはり世間一般の価値観においては終身雇用が至上ということになっていて、特に熟年層の人々は一つの会社に一生勤められる男こそ一人前だと考えているのだ・・・。「1年なんかじゃ全然駄目。2年勤めててもまだわからないね。」・・・そうですか、それではカメラマンアシスタントはおろか、カメラマンなんかも全然駄目ですね・・・という言葉を私は喉元で押さえつけたのだが、胸の奥ではその言葉に納得しないでもないもう一人の私が居る事に恥じらいを覚えていた。これがすなわち、生き様としてのハッタリを実践できているか否かの試金石の一つの例なのだと思う。恐らく何のしがらみも感ずることなくカメラマンになれる人々はこうした言葉に触れても何の良心の呵責も感じないだろうから。このように年長者に言われるまでもなく、我々は(特に私は会社員の倅だから)子供の頃から漠然と、何処かの会社に入って少しは出世して、子供も2人くらいもうけて住宅ローンに苦しむのだろうな、という人生のビジョンを持たされてしまっている。そして世間に夥しく居る子の親たちはまず8割方はサラリーマンなので、親の背中を見て育つ式にその子供たちも半自動的にサラリーマンになってゆく。植木等が「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と唄った時代はもはや遠くへと去ってしまったけれど、サラリーマンには間違いなく固定給がある。そしてボーナスがある。その生活の安寧を自ら壊して自由業、殊に歌手やら画家、そしてカメラマンになろうとするサラリーマンの子たちをサラリーマンたる親たちは当然止めようとする。その親たちはかつて自分が夢見たことをすっかり忘れたふりをして子供たちを説き伏せにかかるのだ。そしてそうした懐柔策に屈する子供と屈しない子供の2種類が現れてくるのは自然な事だが、その中で屈しない方がカメラマンへの道を歩き出すことになるのは皆様お分かりであろう。

 書き進めながら、再び運命・宿命論になっている事を私は反省している。上の懐柔策に屈するも屈しないも、所詮はその本人の性質次第ではないか。だが、こういう風には言えるだろう。とにかく世間の価値観の逆を行け。反対されればされるほど目的には近づいている。そうした生活を実践し、それに違和感を感じなくなったときには本稿が要求するところの「ハッタリスト」に近づけたのではないか、あるいは性質自体を変化させられたと言えるのではないかと。勿論このハッタリは、カメラマンになろうとするならばカメラマン的なものでなければならない。その辺りはまさにアシスタントとなって習得してゆくしかないのかも知れない。天性のそれが自分にないと自覚するのならば。

 それではそのカメラマンになるに相応しいハッタリとはいかなる種類のものであろうか。まあこの章の最初にも少し例示してあるので大体こんな所かな、と読者の皆様は思われていると思うが、まさにその程度のことである、と私の浅知恵は言う。繰り返しになるが、クライアントたるプチブルに如何に近づくか、そして自分の写真は他の同業者と違って優れていると自ら信じ込み、またクライアントに信じ込ませるか、また出来るだけ派手にライトを使い、小難しそうなカメラで撮影を行うか・・・。

 カメラマンとは何の資格が無くとも開業できる商売である。誰でも名刺を作り、そこに「カメラマン」或いは「フォトグラファー」と書き込めばめでたくカメラマンの一丁上がりだ。しかしそのようなにわかカメラマンはいくらでも、それこそ星の数ほど居る。そのような名刺を作ってしまう事自体がハッタリそのものなのだから、その中でいかに恥じらい、疑うことなくハッタリを押し通せるか。それこそがカメラマンとしての成功への鍵であり、生き様としてのハッタリが試される場でもある。そのハッタリがまだ生き様として確立していない者は途中で恥じらいを感じたり、カタい職業に憧れたりして、結果としてカメラマンとしての成功を収める事は出来ないのだ。

 随分観念的な話に終始してしまったが、カメラマンになろうと欲する方には十分な理由を、なるまいと思う方には円満な諦観を差し上げられますように。
(来週に続く)

  


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