第115回

(筆者注:筆者は以前、確実にカメラマンを目指していた人間であります。このことをお含みになって読んでいただければ幸いです。この文章は写真愛好家・カメラマンにとって不快な内容を含みます。そのような文章を読みたくないと思われる方は直ちにブラウザを終了、あるいは他のページに移ってください。なお、この注意を無視してお読みになった上での苦情は受け付けませんのでご注意ください。これは筆者自身への戒めの意味を込めた文章であります。何卒ご了解下さい。)


連載「カメラマンにならないためのいくつかの方法」
(2)学生時代から「現場」に近い職場に勤めよ 第4回

 さて、アシスタントの条件について考えた上で、今度は「師匠」側の条件について考えてみる事にしたい。私自身はカメラマンとして人を使う立場に立った事もないし、何人もの「師匠」に付いた事もないので浅い了見でしか語れないのは承知の上なのだが、もし、まかり間違ってこれからそうした業界の仕事に従事する人のために、そしてその中で運命を決めねばならない人たちのために一言二言申し上げておきたいと思う。

 ・・・アシスタント業も仕事(正当に報酬を要求するべき仕事)のうちの1つだという事についてはもう諒解して頂けただろうか。何度も言うようだが、どんな仕事でも金銭の授受が生じる以上は「ビジネス」なのである。カネでしか動かない人間を薄情と言うなかれ。技術の修行なのだからこちらから金を払うくらいの気持ちでやれというのも間違っている。兎角、相場の見えないアシスタント業界なのだが、少ない中でもきちんと難癖を付けずに笑顔で払ってくれる「師匠」が一番である。何かと難をつけて金額を負けようとされたときには、自分の非はどこに有ったのかまず検証することは勿論だと思うがその次に、その師匠が本当に支払い能力が無い人なのか、あるいは単なる吝嗇(けち)なのかを冷静になって考えてみる必要があると思う。まあ何れにしても長くおつき合いが出来ない人だと言う事は自明であろう。その1万円か2万円を節約したがために若者の信頼を欠く。それが自分の収入には関係ないとは言え、まわりまわって自分の評価を下げるという事を理解できていない人種は確かに居るものである。
 
 また、若すぎる「師匠」も、これは考え物であろう。年をとった学校の教師が円熟味を増し、はたまた若い教師が無気力に、あるいはヒステリックに生徒に接するように、人間を取り扱う事に関しては殊に年の功が重要な役割を演じるのだと私は考える。全ての人間に対して「若いから駄目だ」と決めつけるつもりは私には毛頭ないのであるが、経験から言って年配者の「お説教」は的を射ている確率が高いように感じる。例え同じ内容について怒りを覚えたにしても、その内容を如何に咀嚼してアシスタントに語るかという点が違うのだ。私としては経験がないので例示できないのは残念なのだが、まあこの点に関しての異議は殆どないであろう。赤の他人が2人きりで仕事をすれば、そこに何らかの摩擦が生じるのは避けられないのだが、その思いを「師匠」が「師匠」たる立場を笠に着て高圧的に押しつけるのはたやすい事だ。しかし、たやすい方法で作られたものには後で必ず襤褸(ぼろ)が出る。木材を接着するときに、接着剤で着けるか釘を打ち込むか、はたまたダボを切ってそこに嵌め込むか、どれが最も耐久性があるかを想像してみて戴きたい。手間を掛けられ、どのような心理機制で物事が納得されるかを知っているのはやはり年輩の方である。これはもはや理屈ではない。また同様に、子供は居ないより居た方がより良いとも言えよう。諸事情があって子供が出来ない家庭もあり、その点を責めるのは適切でないと承知はしているのだが、やはり子育ての経験は後進者の育成にも役立つのだと私は信じる。年若い他人の子供を会社の社長でもないのに使う事。少なくとも、アシスタントを活用する能力について言えば「有子>妻帯>独身」という図式が成り立つのは間違いなかろう。

 相性、という言葉がある。どんな仕事でも始めるまで勝手が分からないという事実もある。この他にもあげつらえばきりのない「師匠」の条件がある。私が今のところ感情的な部分を抜きにして語れるのは上記の2点についてだが、後は各人の好みに応じて誰の弟子になるかを考えて戴く他ない。無責任な言い方になるが。しかしこれだけは忘れずにいて戴きたい。「親は選べないが師匠は選べる。師匠は彼一人ではない。」

 この項の締めくくりとして、労働基準法の第69条をここに掲げておくことにしよう。
「使用者は、徒弟、見習、養成工その他名称の如何を問わず、技能の習得を目的とする者であることを理由として、労働者を酷使してはならない。」
(来週に続く)

  


メール

帰省ラッシュ