第114回

(筆者注:筆者は以前、確実にカメラマンを目指していた人間であります。このことをお含みになって読んでいただければ幸いです。この文章は写真愛好家・カメラマンにとって不快な内容を含みます。そのような文章を読みたくないと思われる方は直ちにブラウザを終了、あるいは他のページに移ってください。なお、この注意を無視してお読みになった上での苦情は受け付けませんのでご注意ください。これは筆者自身への戒めの意味を込めた文章であります。何卒ご了解下さい。)


連載「カメラマンにならないためのいくつかの方法」
(2)学生時代から「現場」に近い職場に勤めよ 第3回

 カメラマンにならないために、アシスタントになる。そのような愚行に出る方はまずあり得ないとは思うのだが、もしかしたらカメラマンという目的抜きに、写真の業界とはどのようなものか見てみようという奇特な御仁がいることを想定してこれから少し書いてみたい。すなわち、アシスタントにつきながらカメラマンにならないという贅沢な生き方への指針である。

 多くのアシスタントは、如何に自分が早くカメラマンに成り上がれるか、という事ばかり考えているものだ。さもなくば、あのような息の詰まる師匠との2人きりの時間や現像の待ち時間の無為な時間を過ごせるはずがないのである。ところが、この視点を少し変えるだけでカメラマンにならない道は拓けるのである。それは、「アシスタント業をビジネスとして捉えるのではなく、2人の人間同士としてのウエットな付き合いに徹する」これである。私事の補助をし、家庭の愚痴まで聞き、自分の家庭の事まで洗いざらい話して一心同体になりきれば「独立しよう」「独立したい」とは口が裂けても言えなくなるはずである。人間とは情にもろいものだ。師匠に対して「自分が居なくなったら困るだろうな」と考えてしまうのは世の常、当然の事なのである。しかし、それを断ち切る事が出来るか否かで、カメラマンへの道が決まるのだと私は思っている。いや、「自分が居なくなったら困るだろうな」などとは思わない読者の皆様が大半なのかも知れない。このようなことを平気で書ける私はやはりカメラマンにならないという運命を負った存在なのだろう。冷静に考えれば、月々10万円前後で不定休な仕事を与える人間に対して何らかの情を覚える事自体ナンセンスなのだ。師匠はあくまで踏み台として利用する−その大前提を崩した時、アシスタントはカメラマンにならない道を歩み始めることになるのだ。

 また、そうしたウエットな関係を続ける事により、師匠の側でも独立させてやろうという気持ちが薄れるという効果も見逃せないであろう。「こいつはいくら無茶を言っても付いてくる」と師匠が思ったとき、師匠側としてはこれ以上の逸材が見つかるだろうかという不安に駆られるのだと私は思う。はっきりと意志を持って誰かに入門しようというアシスタントは少ないのだ。その師匠がビッグネームでなければ尚更である。多くのアシスタントというのは専門学校や大学の掲示板に張り出されるビラや、そういった機関の職員によって紹介されて来るのが常なのである。すなわち、師匠の側にしてみれば決して「自分のために」「自分を慕って」来るものではないのである。だからこそ、しばらく使ってみて忍容性が良好だと認められた者は手放せなくなってしまうのだ。ほんの少しの面接で雇い入れ、無理難題を逃げ出さずに聞き、耐え忍ぶ人間が居なくなったらどうするだろうか?次にまたそのような人間が見つかるという確証はどこにも無いのである。結果、この世の中には多くのアシスタントが長期にわたって飼い殺しにされているのである。・・・考えてもみて頂きたい。頻繁にアシスタントが代わるカメラマンに対してクライアントはどのような印象を受けるだろうか?やはりそこに生じるのは「給料が少ないのだろうか?」「扱いが手荒いのだろうか?」「クライアントには柔らかく接しているが性根は荒い人なのではないか?」といった疑念であろう。その点からも、カメラマンはアシスタントを変えたがらないのだ。それでも長い年月を経て飼い殺しから脱するアシスタントは確かに存在するが、そうした御仁はすでに心の敏捷性を失い、師匠を超える事はまかりならない年齢に達している例が多い事については悲しい現実としか言いようがないのである。人間は歳を経るにしたがって様々なしがらみに着膨れてゆく。親は歳をとり、自らも10代の肉体を維持出来るわけではない。また結婚や出産も手枷足枷となってわれわれの冒険を妨げる。そういったしがらみが増えきってしまった段階で独立をし、自らの仕事のスタンスを決めねばならないという事は新人カメラマンの独創性を妨げる以外に何の役に立つだろうか。生活のために堅い仕事、堅い仕事(堅いというのは師匠のからみで確実に連載などの仕事が入ってくる、というくらいの意味である)と渡り歩き、結果として営業活動が疎かになって食い詰める構図が見えてくるのは、単に私のひがみのなせる業なのだろうか?だからといってあまり奇抜な仕事ではかえって食えなくなるのは明白であるし、痛し痒しである。このような事については私自身、数年前には随分考えたものだ。そして現在、その結果を出すまでもない境遇に陥った事は幸福なのだろうか、それとも不幸なのだろうか・・・。
(来週に続く)

  


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