第113回

(筆者注:筆者は以前、確実にカメラマンを目指していた人間であります。このことをお含みになって読んでいただければ幸いです。この文章は写真愛好家・カメラマンにとって不快な内容を含みます。そのような文章を読みたくないと思われる方は直ちにブラウザを終了、あるいは他のページに移ってください。なお、この注意を無視してお読みになった上での苦情は受け付けませんのでご注意ください。これは筆者自身への戒めの意味を込めた文章であります。何卒ご了解下さい。)


連載「カメラマンにならないためのいくつかの方法」
(2)学生時代から「現場」に近い職場に勤めよ 第2回

 しかし、である。疑われて当然と書いたが、そこは大人同士の「お仕事」の現場である。疑ってかかることに対しては何ら問題はないと私は信じるものだが、その猜疑心を顕わにする輩もまた居るものだ。これは最高級にたちが悪い。自分の失敗がそのアシスタントに由来すると言うことははっきり言って9割9分無いにも拘わらず、強迫観念的にアシスタントを追い込むタイプ。以前も何処かに書いたと思うのだが、ビジネスの現場に持ち込まれる私情はその現場を不要にウエットにしてしまう。横並びの関係ならばそれはそれで良いのだが、「体のいい」徒弟制度の中におけるウエットさは決して人情や温情を感じさせるものではない。考えてもみて戴きたい。アシスタント(徒弟制度における弟子)とは「おあずけ」を食っている犬であり、また目の前に人参をぶら下げられて走る馬のようなものなのである。すなわち、「憧れの職業に就かせてやるからとりあえず言うことを聞け」と言われている状態なのだ。そこにおいて、犬や馬と人間の立場が違うことは言わずもがなである。そういう職場において「犬」や「馬」を「憧れの職業に就かせる」ことは不文律であり、その大原則抜きにしてそのような職業に就こうという人間(馬同然かも知れないが)はまず居ない。あくまでカメラマンなる職業に就こうとして犬馬はその世界に飛び込んでくるのだから、使う側はそのような心づもりで扱わねばなるまい。すなわち、「純粋なる技術の伝授」と「就業先の斡旋」という2つの事柄が出来るだけ短期間に、そして要領を得た方法でアシスタントに提供されるのが最も円満で幸福な形態と言えるであろう。他の職業とは違い、アシスタント業とはあくまで次の仕事があるという前提で雇用される職業なのだから、その職場になあなあのウエットさを蔓延させてはならないと私は思うのだ。一生勤めるような仕事ならウエットな付き合いも多少は必要になってくると思うが、アシスタント業は良い意味で腰掛けの仕事である。後腐れの無いようにサラッと飛び立てるのが良いと思うのだが。アシスタント本人は専門学校にでも通うつもりで、そして「師匠」(あくまでカギ括弧を付けることにする)は純粋な教員にでもなったつもりで後進の指導にあたる。これが理想だが、因習だらけの写真業界にそんな日は果たして来るだろうか。それともデジタル化が職人芸としての「写真」を駆逐するのが先だろうか?

 未来の話はさておき、現代の実情としてカメラマンの中にはアシスタントを私事の補助に使ってみたり、その門地に立ち入ってみたり、自己の思い通りに動かないからと言って精神修養の為だか何だか知らないが数時間にもわたって恫喝してみたりということをする輩が多いことに対しては論を待たない。アシスタントをうまく使えないという中堅カメラマンの悩みもまた多く存在するものだ。だったら初めからアシスタントなどを使わない方が精神衛生上宜しいのではないかと私は何度も思ったものだが、丁稚奉公の身ゆえ何も言えず、確かに砂漠で荷物を運ぶ駱駝くらいの役には立っているものだからそれでもまあ良いかと思わされてしまったものである。何よりアシスタントを使っていると言うことがカメラマン自身のステイタスアップにもなることであるし。その点では私自身随分貢献したという自負がある。

 アシスタントという職を経なければカメラマンという職には就けないという人がいる。そしてまた、アシスタントという職を経なくてもカメラマンになれるという人がいる。本稿ではアシスタントになったらカメラマンにはなれないという説を採るべきなのだが、この問題に関しては一概にそうとも言い切れない。確かにフリーランスが多いカメラマンという業界にあって、どのようにカメラマンになるべきかということを思えばアシスタントが最良の手段というような気もする。それではどのような人物に付き、どのような態度で勤めたらよいのだろうか?

 この文章をどのような人が読んでいるのだか、私には皆目見当もつかない。あまり生々しいことを書くのも気が引けるのだが、私の経験をありのままに伝えることがこの稿の主旨だと思うのでやはり書き進めてゆきたいと思う。親は選べないが、「師匠」にはまだ選ぶ余地があると思うからだ。それは「相性」という言葉で言い換えることも出来るであろう。どんなに優れた「師匠」であってもその弟子をうまく使いこなせなければ駄目なのであるし、また同時に弟子の浅はかさが「師匠」の素晴らしさを見抜けないということも起こるのであろう。それでは私見になるが、アシスタントの態度並びに良き「師匠」の条件について考えてゆきたいと思う。
(来週に続く)

  


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