第112回

(筆者注:筆者は以前、確実にカメラマンを目指していた人間であります。このことをお含みになって読んでいただければ幸いです。この文章は写真愛好家・カメラマンにとって不快な内容を含みます。そのような文章を読みたくないと思われる方は直ちにブラウザを終了、あるいは他のページに移ってください。なお、この注意を無視してお読みになった上での苦情は受け付けませんのでご注意ください。これは筆者自身への戒めの意味を込めた文章であります。何卒ご了解下さい。)


連載「カメラマンにならないためのいくつかの方法」
(2)学生時代から「現場」に近い職場に勤めよ 第1回


 私はカメラマンとしての礎を築くべく、大学入学後間もなく何の疑いもなしに某出版社の某女性向け情報誌編集部にアルバイトとして入った。今思えばこれも何かの運命に導かれたとしか言いようのない、因果な出会いであった。「業(ごう)」という言葉を思い出さずには居られない、そんな出会い。

 1994年4月、私はこのサイトで何度も述べているように日本大学芸術学部写真学科に入学した。大学生が入学にあたって初めて受ける洗礼・新歓コンパ。幾度かに分けて開催されたその催しの2度目であったか、その席で私は1級上の先輩にこう声を掛けられたのだった。「出版社でバイトしない?」

 田舎者だった、そして世間を知らな過ぎた私は、そのオファーを2つ返事で承諾した。その席には数十名の同級生が居たのだが、私はそのオファーを聞き流す同級生の姿勢を全く理解できなかったものだ。「何故、花の出版業界で勤めたいと思わないのだろうか!?」と。・・・そうした連中は確かに今日、それなりにカメラマンとしての成功を収めつつあるようだ。私は今になって、彼らは大学入学前からカメラマンになる・ならないの勘所を知っていたのではなかろうかと思う。目の前にぶら下がる出版業界への道筋をあえて避けるという英断。はからずも、私はその刹那にカメラマンにならない道を歩み始めたのだと思っている。

 かくして月日は流れ、1994年の5月から私は週に数回、その編集部に通い始めることとなった。勤め始めた頃は毎日が新しい発見の連続で、プロカメラマンの流儀とはこんなものかと、門前の僧よろしく学び取ったつもりになっていた。リバーサルフィルムの撮影・現像、ストロボによるライティング、様々な商品撮影の方法・・・。花の東京でタクシーを乗り回し(勿論私一人で、ではなかったが)、芸能プロダクションや有名店舗のバックルームで広報担当のお姉さんにもてなされ、いろいろな所でようこそ撮影に来てくださったと言われる事に対しては当然、悪い気はしなかった。このように書いていると、地方の方が東京は怖いところだと言う意味を今になって少しだけ解した気になってくる。人間、一度良い待遇を受けてしまうと癖になる。何でも手に入り、何でも出来るような気にさせる街・東京。その刺激をどのようにこなすかに出身地の差は無いと思うが、とにかく私にとっては刺激が強すぎたようだ。些細な話になるが、高校生の頃には爪に火を灯すような思いで使っていたフィルム。そのフィルム(しかも当然、カラーリバーサルフィルムだ。ご存じだろうが1本1000円近くする)が目の前で湯水のように消費されてゆくさまも、私の心に深い感銘を与えたということも申し添えておこう。

 そんな風にアルバイト生活を過ごし、時には生意気な事をして叱られ、また時には深夜に及ぶ撮影に立ち会って充実感を得、3年目くらいからは自分でも仕事(=独立)が出来るかのように私は錯覚しはじめていた。

 しかし、それが誤りなのであった。アシスタントはアシスタントにすぎないのである。しかも学生風情に任せられていた仕事は撮影自体には大して影響のない事ばかり。言い換えれば、失敗をして自分が食いはぐれるというリアルな実感がないという部分が問題だったのだ。撮影の段取りは編集者なりライターなりがするし、確実にフィルムを装填して露出を確認してシャッターをリリースするのは他ならぬカメラマン自身だ。その職業としての写真行為の本質的な部分にアシスタントが介入する余地は何ら無かった。確かに荷物を持ったりレフ板を持ったりするのも必要欠くべからざるアシスタントとしての職分ではあったが、考えてみて頂きたい。失敗をすれば自分が食えなくなる人間が人にその仕事の根幹を任せることが出来るだろうか?・・・答えは当然、否である。いかにカメラマン・アシスタント相互の信頼関係が出来ていたとしても、カメラマン先生はどこかでアシスタントを疑ってかからなければならない。もし、本当にアシスタントを疑っていないカメラマンがいたら是非お目にかかりたいものだ。その人は余程のアーティストか、はたまた・・・・だと私は思う。疑われて当然。疑心暗鬼で丁度いいのである。
(来週に続く)

  


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