第110回

 連載「カメラマンにならないためのいくつかの方法」
(1)写真の専門家たれ 第2回
 

ゼラチンゲルの中の銀粒子の配列ムこれを金に換えるのがカメラマンの仕事だと書いた。物書きは文字を(あるいは原稿用紙上のインクのしみを)金に換える職業だし、歌手というのはその声帯の振動がたまたま人心に心地よく聞こえるからその振動を金に換えて生業に出来る人たちだ。この世の中にあまねく存在する「クリエイティヴな」職業とは結局、実体のないものを如何に価値があるように見せかけるかということ、ただそれだけなのである。それの農業や生産業との決定的な違いは、その形のないものに値段を付けなければならないというところにある。大根を掘ってきてこれを150円で売る、イヤこれは少し高いよと言われても120円で捌けばそれで済む話だ。もともと世間に相場があるモノを売る行為は確かに儲けは知れているだろうが、人間が古来行ってきた真っ当な商売の姿だけに間違いないのである。しかし、クリエイティヴな芸の道は演歌にも歌われているように、「芸のためなら女房も泣かす」ヤクザな世界なのである。社員として雇われているカメラマンなぞはごく少数で、その他は皆自由業、言い換えれば個人事業主ですなわち社長さんなのである。だから個人で営業活動をしなければならないし、中には仲間のカメラマンと組んで事務所を設立する者もいる。なにしろ値段も相場もない、それでいて競合他社の多い業界を勝ち残ってゆくためにはどうしたらよいか?そのために私はカメラマンにならないためには写真の専門家たれ、と言うのである。すなわち、写真に専念していれば商売のセンスも磨かなくて済むし、写真のエッセンスとなる様々な知識も得なくて済むのである。カメラマンの世界で一流と呼ばれてしまう人たちは一概に博識だ。どのような分野の写真でもお客様に依頼されれば否応なしに撮らなければならないのがカメラマンという商売だから、自分の中に様々な引き出しを持っていなければならないからである。しかもそうした人々は案外写真の機材に頓着しないのが常だ。毎年毎年新機種が発表されるカメラの世界。AF(オートフォーカス)、AE(自動露出)が常識の世の中にあって未だにニコンF3やキヤノンF−1が愛用されるのは、彼らがいかに保守的で、カメラ自体にこだわりを持っていないかという事を物語っている。古い、マニュアルフォーカスのカメラを使うのがプロの誇り・こだわりだと我々アマチュアは思うものだが、それは実は違うのではないか。カメラメーカーもいかに撮影の生産性が向上するかということを目標に新機種を発表しつづけている。それを使うまでに操作を覚えるのが大変だ、という意見もあるのだが、これに乗らない手はどう考えてもない。多少の先行投資はあっても、結果として生産性が向上すればもとは取れるではないか。カメラメーカーとて売らんかな、という事だけ考えているわけではないだろうし。
 ところで、カメラ自体への愛情をむきだしにしながらカメラマンになってしまう人間は極めて希だろう。有名なところで言えば田中長徳氏などが挙げられるだろうか。もう世にあまねく存在するカメラマニアの大統領といった趣のある氏。実は写真集もきちんと出されていることを皆さんはご存じだろうか?氏もれっきとしたカメラマンの一員なのである。あそこまでえげつなくライカへの偏愛(?)を語り、被写体のためにではなくレンズのために写真を撮っているかのように見える姿勢が多くのアマチュアカメラマンを誤解の闇の中に陥れている彼の存在はもはや感動的ですらある。いや、これは田中氏を中傷するつもりで書いている文章なのではないのだ。私は氏を、カメラマニアのままカメラマンになった天然記念物的存在として尊敬しているのである。そんな「ピュア」な心のままでカメラマンになってしまうカメラマニアは絶対にどこかで大きな蹉跌にあうと私は信じて疑わないから。それを証拠に、氏はどちらかと言えば物書きとして活躍しているではないか。裏を返せば、氏には「カメラマニア」という引き出ししかないということになる。それでもこれだけ活躍できているのだから、これはこれとして「芸」と認めざるを得ないだろう。しかし多くのカメラマニアに無用な幻想を与えはしないだろうかと私などは危惧してしまうのだ。
 また、若者向けの写真雑誌の中にも、カメラマンにならないためのヒントが満ちている。
(来週に続く)
 

  


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