何だか、説教めいた本が売れている昨今。「葉っぱのフレディ」などはもう古典の部類で、近頃売れ筋なのは「チーズはどこへ消えた?」あたりだろうか。その他にももう数え切れない程の「説教本」が今、巷に出回っている。その効用はともかくとして、現代人が何らかの指針ム大局的なものから些末なものまでムを渇望しているとみて間違いないだろう。大抵の情報はここ・インターネットに流れている現在、生き様やら暮らし方やらの明文化された情報まで人々は求めているかのようだ。もちろんWebでそうしたことを探し求める人種もあるだろうが、概してそのような曖昧模糊とした事柄を説き明かす為には膨大な字数を要するため、やはり古典的な書籍という方法で流通させざるを得ないというのが正直なところなのだろう。まだまだWebで長文を流して儲けられる、という時代ではないのだからして。
さて、その「説教本」のブームの最中にあって、俺も何か書けないものかと近頃考えていた。こんな若造の説教が何の役に立つか、という当たり前の疑念はさておいて、あれこれ考えた中で出てきたのがこんなアイディアである。「カメラマンにならないためのいくつかの方法」・・・俺が経験してきた事の中で、皆さんに含蓄(?)をもって語れるのはやはりこの件についてだろうと思うし、カメラマンという職業は依然として若者のアコガレの職業だろうから、敢えてこの様な挑発的なタイトルの文章を書いてみたら面白いのではないかと思うのである。方法がいくつになるかは目下思案中。そういう訳で今週から漸次、このコーナーでは「カメラマンにならないためのいくつかの方法」を連載とさせていただきたいと思うので宜しくおつき合いの程を。かなり辛口になると思いますが、カメラマンの皆様、ご容赦の程を。俺が自分の半生の中で失敗してきた事を皮肉いっぱいにつづって参りますゆえ・・・。
「カメラマンにならないためのいくつかの方法」
(1) 写真の専門家たれ
写真というのは大分大衆化された技術とはいえ、相変わらずプロとアマチュアの間には大きな格差があるのが事実である。街頭を飾るポスター、新聞紙上の報道写真、そして雑誌のグラビア写真・・・。ただただシャッターを押せばきれいな写真が撮影できるというのはカメラ・フィルムメーカーが作り出した幻想に過ぎない。日本にはいくつかの写真の専攻を持つ大学があり、さらに数多くの専門学校があり、さらに写真サークル・クラブの類に至ってはもう無数の数が存在している。この事実はわれわれに写真の奥深さを物語ってはいないだろうか。また写真に関する雑誌・書籍もまた無数にあるといってよいだろう。一般の書店に並ぶ雑誌だけでも4〜5誌、その他に専門家向けの業界紙をも含めたら正確な数はすぐには分からない程だ。だからカメラマンを志す者はいきおいそうした類の学校に通い、そうした雑誌を熟読することになる。誰もがそうした知識の積み重ねがカメラマンへの道であると誰もが信じて疑わないし、何よりこの私こそ、まさにそうした人種の典型だったと言えるだろう。
写真の大学に通い、写真関係の雑誌にはほぼ目を通し、写真の技術から芸術論まで幅広い知識を身につけようとしていた俺は、写真を撮影することもさることながら、いかにカメラの種類を知っているか、あるいはどれだけ多くのフィルムを使ったことがあるかというような重箱の隅をつつくような行為にうつつをぬかし、その知識を誇るようになっていった。さらに都合の悪いことには、そうした人種の方が学校組織の中ではよい成績を修めるのである。写真の作品の優劣を数字で評価するのは誠に難しいことだが、写真の知識は容易に数量化が可能だ。だからそうした知識の虜になっている人間は学校でよい成績を修めてしまい、周りの仲間からも頼りにされてしまう。それによって快感を知ってしまったその手の人種はどんどん増長して、結局は写真の何たるかを知ることができないのだ。(誰がそれを知っていようかという問題もあるが)そうした人種は実際の現場に出るカメラマンではなく、現像屋になったり、大学の講師になったり、運の良いものは写真スタジオに勤めたりするようになる。はたまた大金を払って買った大学卒という肩書きを行使することなく、全く写真以外の仕事で生計を立てる者も居る。
カメラマンになるまいと思う写真愛好家は、すべからく写真の事にのみ専念していれば間違いない。どんな会話の中にも写真のヒントになるような事柄を見つけだして歓び、己の目をファインダーと思って世の中を見ていれば良い。現に3年前の俺はそれを実践してカメラマンにならないという運命に導かれることとなったのだ。新宿、という地名を聴けばすぐにカメラ店を連想し、なぜ「ヨドバシカメラ」なのにカメラ以外の品の方が多いのかと憤慨し、行楽地に行けば記念写真を撮る観光客のカメラ観察に余念なし。本屋に行けば写真関係の本以外には目もくれず、休日の夜は暗室三昧。そうした「研鑽」の結果、人はカメラマンという職業を己の身から遠ざけることが出来るのだ。
愛すれば愛するほど遠ざかってゆくもの。近頃はちょっと異性にしつこくすると「ストーカー」の烙印を押されてしまう時代だが、いくら好意を寄せていても相手に嫌われていてはどんなモーションも無意味なことは皆さんご承知だろう。その愛情がまだ小さいうちは諦めることもたやすいだろうが、あまりに身勝手な熱愛は人をしてストーキングに駆り立てる。これしかないのだ、という狭い了見。意地、と言い換えても差し支えなかろう。これは自分の所望する目標を自ら遠ざけるものだと私は今になって実感する。好きなことをしていたいと思うのは人間として当然の心理だが、好きなことは妥協を許さない。好きであればあるほどその事柄に対しての専門知識が欲しくなり、微塵もそれについて誤った事は聞きたくないのだ。
写真、という映像を扱う趣味・仕事において、これはこう、あれはあれという定石はまず存在しない。まあ純粋にそれを「お仕事」として見るならば様々な作法が存在し、そこから逸脱した写真はお代を頂戴できないということも多いのだが、あくまで写真というのは「嘘」であるし「虚構」であるし「価値を与えようとしなければ全く意味のない銀とゼラチン」なのだという事をわれわれは忘れてはならないだろう。つまり写真愛好家にとって、自分が自分を信じて培ってきた知識や技術を完全に無視させて、全く意味のないゼラチンゲルの中の銀粒子の配列を金に換えること、これが「カメラマンになる」という選択なのである。
(来週に続く)
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