良く晴れた春の日曜日。今週も引き続き考えてゆきたいのは、相変わらず隔靴掻痒の思いがする写真部新入部員勧誘に対する現役部員の姿勢についてである。こんな4月の晴れ間にはどうしても俺自身が写真部の新入りだった頃を思い出さずには居られないから、俺は今週も書かずには居られないのである。あの頃、期待に胸を膨らませつつ誰も居ない部室のドアを叩いた俺。新入部員の勧誘が正式に始まっていなかった時に写真部を訪れた俺のような男は2度と現れないだろうか。別にそんな俺が良いのだとか悪いのだとか、そんな事を言うつもりはない。ただ、その閉まった部室のドアと、閑散とした2階の廊下の風景に俺は少なからず裏切られたような印象を受けたのである。だから俺は写真部員となり、新入部員を迎える立場となった頃には必ず部室のドアを開け放ち、なるべく遅くまで部室に居るように心がけたのである。まあその効果が有ったか無かったかは別として、それだけの姿勢を未だ見ぬ写真部員に示したかったのである。自分自身の経験から言って。
さて、「未だ見ぬ写真部員」と書いた。読んで字の如く、この言葉には「来るか来ないか分からない、あるいは来ないだろう」と云う意味合いが含まれている。時代の流れからか、必ずしも部活動に加入しなくても良いというのは何処の学校にも起きている流れなのであるが、これは則ち部活動以外にも高校生の放課後の課外活動は有るという事をお上(文部科学省なり、地方の教育委員会なり、或いは私学の先生様かも知れない)が認めたという事なのであろう。塾に行く、大宮でたむろする、援助交際に走る、あるいは家でただ過ごす・・・。そうした事に部活動と同等以上の価値があると、生徒もお上も見出し始めたと理解して差し支えなかろう。俺を含めて、川越東高校写真部シンパのOB達には部活動には参加して然るべきという頭しかないからどうしても偏った見方・言い方しか出来ないのであるが、これが所謂、陳腐な物言いで表現されるところの「価値観の多様化」と云うヤツなのだろう。放課後の折角自由な時間をあえて上級生と一緒に過ごすいわれは無いし、複雑な人間関係もご免蒙りたいと考える15歳は、実は俺や写真部シンパが考える以上に多いのではなかろうか。言いたくはないが、これは恐らく真実である。否、15歳(新入部員)だけではない。今現役で居る諸君もそうした思想の上で動いている様な気がしてならないのだ。
部活動は、授業の延長ではない。授業はある程度受け身に、嫌々ながらやらされる面があって然るべき(私学に金を払って入学した者としてはどうかと思うが)ものだと思うが、部活動は全く違う種類のものだ。顧問は居るがそれはもはや象徴的な存在に過ぎず、その内部は生徒同士の信託に拠って任命された部長とその仲間たちによって運営されているものだ。いわばそれは生徒だけで作り上げるコミュニティーなのである。部活動に入っておけば進学や評定上で何らかの特典があるだろうとか、親に言われたから「クラブ」でなく「部活」に入っただとか、その様な人種が本来居るべき場所ではないのだが、実際はそうでもないらしく聞いている。そうした違う意味での「義務感」に突き動かされた人種が増えれば増えるほど、その部活は妙な義理やら使命感やらに支配されてしまう。それではつまらぬ授業の延長だ。独創的な作品が高校写真界において近年減ったと嘆かれるが、それはこうした流れ上当然のことだったのだと思う。写真展の作品を、夏休みの末日に無理矢理書かされる読書感想文の様な心持ちで作る輩。文章は考えなければ書けないが、写真はシャッターを押せばとりあえず写ってしまう、そのたちの悪さ。宿題は免れられないが、写真は部活を辞めればそれまで。でも今後の評定の事を考えると辞められない気持ち。しかも運動部よりは楽と来ているから、ずるずると流されて行ってしまう。どんな部活に居ようが居まいが、大学の合格率に差は無い事に若人は気付けない。
・・・先般、幣サイトの「本気掲示板」にこのような書き込みがあった。川越東高校写真部のサイトの管理者・スガワラ氏からである。
「新入部員が集まらなかったら廃部になるかも」と心配しながら、勧誘のための努力を怠りまくる現役生に心底呆れ果てました。(中略)やっぱ汚さに見かねて3月の訪久中に軽く片付けと掃除をやっちまったわしが馬鹿だったのでしょうか?わしが掃除したのに「大掃除はいつする?」って聞かれて「掃除したじゃないですか」と堂々と答えるなよ・・・。勧誘冊子も原稿の使用許可求められたから「少しはやる気になってるのかな?」と思いきや、完成したのを見たら2年前に作った奴のデッドコピーだし・・・。考えもせずに文章そのまま使うから嘘満載だっつーのや。大掃除してないのに「大規模な整頓をした」ことになってるし、とっくに壊れて使用不可になってるのに「旧式パソコン2台と旧式ワープロで創作活動が可能」なことになってるし・・・。暖簾に腕押し糠に釘。」
俺がこの中でも特に気になったのは、「勧誘冊子が2年前に作った奴のデッドコピーだ」という件である。自分たちが自分たちなりの理想像を持って新しい部員を求めるという当然の事が分からないのだろうか。また、いずれにせよ結局は「部員来て頂戴」という内容にしかならない冊子なりポスターなりをどのように目新しく見せるかという創意工夫も全く見られないようだし、これではプライドがないのだ、と理解されても仕方があるまい。まさかとは思うが、スガワラ氏の機嫌を取るために原稿の使用許可を取ったのかと勘繰りたくもなる。
こういった事が起きるのも全て今の部員諸君が義務感の徒だからなのであろう。元来部活動とは同好の士が集まるところと相場は決まっていたが、どうも俺の見ている限り、最近では総無責任・総無関心のうちに運営されているようだ。誰か一人でも良いから惜しみない、恥知らずな写真部への愛を見せてくれる現役部員が出れば良いのだが。そしてわれわれOBは、その時その時に無償の奉仕をしよう。見返りを求めるから腹も立とうというものである。人に何かをさせようとするのではなく、自分自身の為にしてみる事。それこそが本当に根付くOBの「影響」だと思うのだが、如何なものか。いよいよ4月9日に部活動紹介が挙行されるそうだが、部員諸君にはどんな形であれ、最善を尽くして頂きたいと思うのである。OBの轍を踏むのもよし、何か手段を考えるのもまた良し。これからもOBはウルサイぞ!
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