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先程から「若林、偉そうだな」と言う声が聞こえてくるので、俺が高校生だった頃の話を少し書いてみる。
…「この部室、電気ポットがあるぜ」「何か臭いよな、ここ」「クーラーなんかもあったりして」「このパソコンは何?プラモデルは何?」俺が写真部の部室に初めて足を踏み入れたのは今から5年前の5月某日。埼玉、川越の空は曇っていた。好きだった片恋の君に別れを告げられ、傷心のうちに入学した男子校の廊下には、あのニキビのつぶれた匂いと、氷酢酸90%とスーパーフジフィックスの得も言われぬ香りが漂っていた。
俺は写真部と聞くたびに、あのおろしたての学ランに定着液が着かないか心配しながらフィルム現像した日々を思い出す。キングの片溝式ブラスチックタンクはミクロファインの原液を450ccも飲み込んだ。「攪拌はl分間に1回か一」覚え立てのリール巻きを何とか終え、その時俺はフィル現の処女航海の船出を迎えていた。ああなんという感動!幼い頃から父親のカメラ一今思うとあれはヤシカエレクトロ35GXだった一に異常な興味を示し、その5年前には近所に住んでいた好きな女の子の写真を撮ろうとして動揺の余りこれまた父親の、ニコンピカイチ35AD2を破壊した俺が、今まさに俺の写真を自分で現像しているのだ。現像、停止、定着。その3つの工程を終えた俺は、いよいよ、あの通知表を開いてみるときのような気持ち、修学旅行の夜のような気持ちで現像タンクを開いてみた。
すると!ああなんという運命の残酷、何という人生の悲哀、俺の巻いたネオパンSSは互いに癒着し合い、グレーのムラを見せていたのであった。「まあ初めは仕方ないよ」と山本先輩がいったのを聞きながら、俺は新たなる闘いに向けて闘志をみなぎらせていた。生来のメカ好き、薬品好きで、俺にはこうして写真の撮影論をぶつ資格はないのではないかと今思う。俺は当時から訳も分からず様々な機材やフィルム、そして技法に挑戦していた。当時、わが川越東高等学校写真部ではネオパン400プレストが主流で、それをミクロファインで現像するのが一般的なのだったが、俺はトライXを始め、テクニカルパンやイルフォードHP5、FP4、TMAXl00、400、3200などにやたらに手を出し、写真というよりはむしろフィルム現像を楽しんでいたのであった。
カメラにしても、あの郵便局のバイトで買ったマミヤプレスは忘れがたい思い出の品だ。皆さんもしたことがあるかもしれない郵便局のバイト。俺は学校にバレるとマズいので〈もう時効だということにして書く。)割のいい配達の係は避けて内勤の道を選んだのだが、1週間やっていくら貰っただろうか一確か時給650円くらいのものだったように記憶している。結局、高校生にしてみれぱ大金だった3万円余りをその年の正月に手にした俺は、本当に何をしようというのではなしに新宿東口の路上に立っていた。新宿には数多くの中古カメラ店があるが、ちょうどスタジオアルタのそば、百果園の筋向かいの靴屋のとなりに「アルプス堂」というカメラ店がある。入口にはローライやライカ、そして入ると狭い店内に所狭しとカメラが並んでいる。南伸坊みたいな店員と、背の低い、丸い眼鏡を掛けた店貝を俺は見慣れているか.今に至るまで声を掛けたことは未だない。
まあそれはさておき、そのアルプス堂で見かけたマミヤプレス、ナント超特価2万5干円は、当時の俺を歓喜させるに十分だった。ご存じの方もあろうが、マミヤプレスはマミヤ光機(今はマミヤ・オーピーという)製の6×9センチ判レンジフフインダーカメラで、集合写真用に一時繁用されたカメラである。それが2万5千円というのは非常に安い。逆さにされても鼻血も出ないくらい安い。「状態なんてどうでもいい、今買うとき、買うなら、買え!」という勢いで、若林茂樹16歳は中判カメラを手にしたのだった。
��当時の俺には何のポリシーもなかった。言わばカメラに写真を撮られているような趣があった。今思えば実に何ということもない写真を撮っていた。例えば朝焼けの川の写真、あるいは地元川越の景色など・・・そのうちの何枚かは例の高校写真展で何某かの賞を受け、俺も当然喜んだのだが一まあ、当時が楽しかったから良しと思う。皆さんにももっと義理で撮るというのではなしに、好きな女のためでもいい、単なるカメラ好きでもいい、どのような動機でも良いから写真を撮って欲しいと思うのである。
高校3年間のある時期に、俺は町の写真を撮っていだ頃があった。都市の写真を撮った写真家は数多い古くはユジェーヌ・アジェから現代では荒木経惟らまで存在するが、まあここで彼等のことについて語る意味はない。ただ間を埋めてみたかっただけだ。というわけで、全然話は飛ぷが俺は浦和の写真ばかり撮っていたことがある。京浜東北線の北浦和や浦和駅。浦和という町には都会になり切れない都会の枯淡の境地が.埼玉人の心の故郷のような雰囲気があると思う。それで俺は日曜日毎に浦和に通い詰め、折々の写真を撮っていた。歩きながら目にする路傍のゴミや、あるいは広角レンズで撮る路上のスナップなどのネガが40本位、今でも家にある。俺は余り、他人にしろといいながらベ夕焼きをとらないのでどのような写真を撮ったか、キャビネのプリントの数枚分しか記憶がないので残念だ。これを機に整理してみようと思う。
またあるときには学校の食堂の写真を撮った日もあった。どこの食堂でも同じだろうが、4時限目終了の声を聞くと途端に教室を飛ぴ出し、階段を混雑させ学食のおばさんを困らせる輩の来襲を受ける。ある日、俺はそれを撮ってやろうと思い立ち、3時限目、確か数学の時間が終わった休み時間だったと思うが一に写真部々室のカギを開け、後輩菅原のアサヒペンタックスMX、28ミリ付きを勝手に持ち出し、トライXを詰めた。授業の合間の部室には、俺を逃がさない結界が張られていたのだろうか。そこら辺に転がっているアサヒカメラをぱらばらとめくっていると、何故か不思議に心が和み、昼食の弁当は今日もどうせ生姜入り玉子焼きなのだろうな、などという思いが俺をそこに留まらせ続けるのだった。
さて4時限目の授業が終わるところまでたどり着いた。眠気と写欲を抑え付けながらやっとたどり着いたのである。そのMXにはストロボを付けていた。スローシャッターとの併用でブレを起こして勤感を出そうという気からだった。チャイムが鳴り、教室のドアが一斉に開く音がすると、そこはもう男たちの匂いでむせかえるような修羅場になった。今、冷静に考えると、同じ格好をした男たちが400人も500人も同じ場所に向かって走っていくのはかなり気持ち悪かったかもしれない。俺はまず先回りして階段の踊り場に立った。次々に降りてくる奴らをノーファインダーで狙った。こんな場面では誰がどう撮っても結果はオーライになるだろう。数回シャッターを切ると俺は人の波に沿って走りながらまた数枚。いよいよ総本山のカウンターを見るや俺は食堂のおばさんに頼んでカウンターの内側に入り、奴等の熱い表情とモーションを撮った。ファインダーを覗いていると、どんな場所にいても不思議と客観的になれるものだ。奴等と熱気を共にする自分と、シャッターを切る自分の2人の自分が俺の中にいるようだ。そのプリントを今でも俺は持っている。うどんの汁をこぼしたあいつは今何をしているのだろうか。見るたびに懐かしさが込み上げてくると同時に、高校生のうちにもっとだくさん日常の写真を撮っておくべきだったと後梅したりもする。
そんな写真も俺はよく撮った。写真部にいて、写真を撮った思い出もさることながら、部室にまつわる思い出も多くある。俺のいた写真部の初代顧間は少し校長に口が利ける人だったらしく、部室の設計もその彼がしたらしい。何しろ流し台に全紙のバットを3枚並べることができたし、勿論冷暖房も完備。そして俺が通学途中の自転車に乗っていて見つけたCDラジカセと来れば、そこはもう治外法権状態だったといってもいい。昔、東京の芝浦に「ジュリアナ東京」というディスコが在ったのに因んでそこを「ジュリアナ久下戸」と呼んでレイヴしたり、昼飯のときの茶を湧かせるのもさることながら、金のないときにはカップラーメンのみでしのぐこともできた。俺は高校時代一カップメンと言って思い出したのだが、フィルムを買うために昼飯代をよくケチっていた。今で言うとバリューセット、当時は「ジェルシーセット」というセットを自分で勝手に組んで楽しんでいたのだ。川越の寺山という所に「寺山ジェルシー」という牛乳屋があって、そこが出しているコーヒー牛乳は何と60円だった。紙パックに入っていて、何とも水っぽいその味も慣れると桃源郷を思わせる御味で、それに20円の「貧乏パン」2本を付けると100円ポッキリになったという次第。少し金のあるときにはジェルシーの代わりにコカコーラを飲んだ。空腹にコカコーラは良く効いた。空腹感がすぐに満たされた。昼休みに例のセットを食べてしまうと予備校に行くまで持たないからといって放課後の掃除の後にコーラを飲んで、そのまま20時40分までの東進ハイスクールの授業をしのいだ日もあった。
それから食堂の味噌汁。これもほとんど具の入っていない、細切りの大根が申し訳なさそうに対流している-否、対流しているうちはまだ上等なほうで、アルミのバットの上で冷め切った彼等は上澄みと底に溜まる味噌とに分離してしまう-をどさくさに紛れて2つ3つ、タダで飲んで飢えをしのいだこともあった。今恩うと本当に惨めね。しかし当時の俺は毎月100フィート巻きのトライXと月光MDFカビネを自腹で買っていたのだから、我ながら恐れ入谷の鬼子母神だ。都合l万2干円位は毎月ひねり出せていだのだから。
螢光灯をセーフライトに替えて俺達の午後は始まった。パンの空き袋の残り香がオレンジ色の光に照らされ、誰もの白いシャツに目を奪われ,4時の声を間くとコレクトールは一層その黄色味を増した。暗室時計は余りにも突然に鳴き出すので、俺達はいつも煙たい思いをしたのだ。廊下を揺るがして、引き戸を揺るがして奴がやって来る。あいつもやって来た。白い床を白い靴で踏んでいるはずなのに、互いに汚されていく様はまるで知らぬ間に古ぴてゆく消しゴムのようだった一
幾ら書いても切りがないので、まあこの辺で止めておく。あの寺山ジェルシーも今はもうない。写真部にこそ永遠あれ!写真部万歳!