風薫る5月、ふと初夏の風に誘われてまたいでしまったのが写真部の敷居だったという君、どうせ写真部はパンチラしか撮ってないクセにと思って入部して裏切られた君、僕は受験生だから一とか言って部活動を捨ててる君!
皆さんそれぞれに写真部に足を踏み入れたきっかけがあると思う。でも皆さんに通じる共通点一それは「写真」という言葉に少しでも興味を引かれた、と言う点ではないだろうか。「写真」という言葉に皆さんはどのようなイメージを持たれるだろうか.ダサイ、カッコイイ、ゲージツ的、ちょっとエッチ・・・とまあいろいろだろう.あるいは写真というのは何かの行事の記録用だと思い込んでいる人もいるかもしれない。ところで、皆さんが入ったのは高校の写真部。皆さんは写真を「撮らねばならない」立場に置かれてしまったのだ。「写真撮らないと部長がウルサイしなあ。」とか「カメラ持って歩くのがさ、重くってよ。」なんて声がそこかしこから間こえては来るが、まずは自分の好きなものから撮り初めてみようではないか。どんな物にも美しいアングルと瞬間がある。女子高生だっていい。Nゲージだっていい。写真を始めたばかりの人の作品を見ると何やら田んぽの景色だったり、川の流れだったりで、あんたは風景写真家か!と言いたくなるようなものが多いのだが、これは彼等が本当に撮りたいものを撮っていない証拠なのだ。だからみんなでどこかで見たような写真を撮って、いや、「撮らされて」しまうのだ。
これを読んだ皆さんには本当に好きな写真で楽しんで欲しいと思う。俺がこれから記すのはその撮影行為をより正確にするための単なる方法に過ぎない。全ては皆さんの心次第だ。しかしそれだけではなんだか締まらないので「写真がうまくなる5箇条」を考えてみた。
一、好きなものを撮ること。これについては解説の必要無し。
一、肌身離さずカメラを持ち歩くこと。写真部員にとってカメラは武士の刀と同じ。居合い抜きの気合いでチャンスを狙え!
一、カッコ付けないこと。俺自身、カメラなんてなくてすむならそれに越したことは無いと恩ったことがあるが、やはりカメラ無しには始まらない。兎角カメラを持っていると人目を引きやすく、人によってはそれだけで写真を撮りたくなくなるようだが、そんな事では写真部員は勤まらないのだよ。とにかく人なら恥を忘れて視線の高さに立ち、接近していくこと。向こうが退いたら話術でフォローだ。大体カメラマンの腕なんて技術3割、口先7割だと俺は教わったものだ。
一、アップで撮ること。構図について、まだよく分からないうちはとにかくアップに徹した方がいい。アップで撮ろうと意識しても初めはどうしても退いてしまうかもしれないが、これは対象を見つめ、度胸を付けるためのとりあえず最初の方法なのだ。上手になるにつれて次第に「うまい退き方」も身につくので、それまではとにかく、アップで。但し望遠で撮ろうとするのは禁じ手である。標準(50ミリくらいのレンズ)で撮れるものに対しては自ら近づいて、足を使って勝負すぺし。
一、とにかく撮れ、そして焼くこと。ローマは一日にしてならず、などと説教するつもりはないが、やはり何事も場数をこなさなければ上達しない。もし本当にうまくなりたいと思うなら月に10本はカメラにフィルムを通し、現像し、プリントして欲しい。そして何でも貪欲に学ぴ取って欲しい。
好きなものを撮れ、と言われてカメラを渡され、さあ撮れと言われてすぐに作品をモノにできる人はそうは居ないはずだ。そんな君はもうこんなものを読む必要はないだろう。大体本当に、写真以外に好きなことがあるのなら写真など撮る必要もないのだ。それはスボーツかも知れないし女体かも知れないしCR黄門ちゃまかも知れない。いずれにしろ何かに没頭している限りは写真などでわざわざ「過去」を創り出すのはナンセンスだ。では何処に我々写真部買は撮る意味を見いだせぱよいのだ!とい言いたくなるだろう。そこである。写真とは単なる記録の手段に過ぎない。最新型のカメラなら撮りたいものに向けてシャッターボタンを押せばとりあえずキレイな写真が写る。そしてその被写体は克明に記録される。しかしこの時の視線に皆さんの思想が込められれば、その刹那にその写真は表現の手段となる。信じられないかもしれないが、写真は今や絵画や美術作品と等しい価値を持つのだよ。青春の赤道直下に居る皆さんには日々様々な事件が起こるであろう。青い抵抗、紅い誘惑、そして純白の愛。そうした思いと外界が重なり合う瞬間を想えぱ、それは素晴らしい、2つとない皆さん自身の分身となるのだ。変な言い方になったが、要するに今、自分は何を思っているのかということを映像(写真)にしようというのであるな。 俺も随分いろいろな写真を撮ったものだ。高校生の頃好きだった女の子の学校の周りをカメラ持って散歩しながら心臓バクバクさせたり、自分の部屋で「自写像」を撮ったり、3年間履き続けた上履きを撮ったり一周りが安易な風景写真でお茶を濁して居る間に俺は白分なりに「自分の」写真を撮ることに努めた。段々話が大げさになってきたが、結局「好きなものを撮れ」という言葉の意味は「他人と違う自分の写真を撮れ」ということだと言いたかったのである。写真は心の鏡なり。高校生の皆さんの作品はどうも、どれを見ても画一的でいけないと思う。近頃の高校写真展を見ていても、子供や動物やどこかの校舎が写っているばかりで、写真の内容ではなしに仕上げの善し悪しが競われているような感がある。高校生らしい写真を撮りなさい、と周りから言われ、自らもそう思うかもしれないがそれが仇になってしまっているのかもしれない。何を撮ってもいいんだから、と俺は皆さんの肩を叩きたい気持ちで一杯だ。青春是写真である。高校生の皆さんの視線のみが青春を表現できるのである。自分の、自分なりの「今」を気楽に撮って欲しいものだ。その「今」の為にもカメラは常に装備するようにな。通学路か、教室か、自分の部屋か、昼の食堂か、便所なんてのもあるかもしれない。とにかくいつでも何処でも恥知らずなまでのシャッター音を響かせて欲しい。