恍惚コラム...

第210回―アジア篇 第10回

 ミャンマーからおととい戻ってきた所である。誰が名付けたか黄金の国。市内の至る所にあるパゴダには金箔が貼られ、祀ってある仏像にも物凄い量の金箔が貼られ、なかにはそのために団子状になっているものまであるのだから驚きだ。しかしそれでも、4週間のビザを使いきるには至らなかった。人々は至極親切、物価も安くて食べ物もそこそこなのではあったが、どうにも宿と観光地の入場料が高過ぎるのである。かの国では自国の貨幣価値が低いために外国人には米ドル払いを求める所が多いのだが、これがくせ者なのである。ちょっと博物館に入れば5ドル。寺を見に出かければ3ドル。遺跡地帯に入ろうとすれば、関門で10ドル。ちょっと待て。我々は日本円をメインで持って行ったのだが、これも良くなかったのである。一般には1ドル=110円前後で推移している昨今なのだが、この国で日本円を米ドルにしようとすると1ドルが140円ほどと、物凄く分が悪いのである。物の分かった旅行者、そして英米からの旅行者はさして困った風ではなかったのだが、このレートの悪さに疲れ切ったというのが最大の敗因だろう。

 10月12日のお昼過ぎ、俺達はバンコク市街からドンムアン空港を目指すべく市バスに乗っていた。バスの番号は29番。バンコク名物のチャトゥチャック市場を左手に見ると、バスは高速道路に入ってゆく。すっかりタイのぬるま湯に浸かってしまった俺にはもはや外国行きという感慨すらなく、いつものバンコクの昼下がりそのままの気分でいた。バスはフラットな道を行き、ブザーを押せば止まってくれる平和な午後。

 もう4度目になるドンムアン空港も勝手が分かっているので徒歩で国際線ホールにたどり着いた。ビジネスマン風情と貧乏旅行者が半々といった顔触れを見ながら、俺達は日本食レストランの高さに呆れたり免税店を冷やかしたりして出発の時を待ったのである。

 総ジュータン張りの搭乗ゲートからヤンゴン経由・ダッカ行きのビーマン航空機に乗り込むと、そこには例のバングラデシュ空間が広がっていた。サリー姿のスチュワーデス。ガラガラのビジネスクラスにはこれでもかこれでもかと言いたげな金持ちバングラ人。俺達の乗るエコノミークラスには同じ境遇の貧乏旅行者も多かったのだが、メインはやっぱり「顔の濃い人々」。うーん、考えて見れば隣の国なので当たり前の話なのだが、やはり航空会社にはお国柄が出るというものだ。短いフライトなので(かどうかは知らないが)機内誌も免税品販売もなし。さらには緊急時の脱出案内のパンフレットもある座席とない座席があって、俺達はのっけから脱力してしまったのである。救命胴衣はきちんと座席の下に入っていたのだが、これでは酸素マスクが降りてくるか心配である。

 それでも飛行機は16時45分の定刻に出発し、僅か1時間のフライトが始まった。1時間のフライト、しかも格安航空券で乗っているので文句は言えまいと思うのだが、安定飛行に入ってスッチーが持ってきたのはいきなり真水。コップに入った真水なんである。これには参った。こんな水ならタイの長距離バスの方がよっぽどサービスいいぞー。で、しばらくして軽食が運ばれてきたのだが、これがまた何とも切ないのである。何だか「欲しがりません勝つまでは」という標語が浮かんできてしまうメニューなのだ。パサパサの食パンに薄いチーズが挟まっただけのサンドイッチと、干からびたトマトとキュウリ。もう1品何かあったような気がするのだが、覚えていないという事は大した事はなかったのであろう。で、それを真水で喰う。侘びしい・・・。国際線なんだからもうちょっと夢を見させて欲しかった・・・。早くもミャンマー行きに不安を覚えてしまう俺達。周りのバングラ人も結構残してたしなぁ・・・。

 そんなショックはモノともせず、飛行機はヤンゴンのミンガラドン国際空港に到着した。が、何だかやたらと暗いのである。ミャンマーの電力事情は悪いと聞いていたが、天下の国際空港なのにこの薄暗さは一体・・・と思わされた。つい1時間前までいたドンムアン空港の満艦飾ぶりを思い出してまたもショックを受ける俺達。呆然と窓の外を眺めていると、沖止めされた飛行機にタラップが繋がって乗客達が続々と降り始めたのだが、その目の前にあったバスを見て2度ビックリ。まごう事なき「東武バス」が横付けされているではないか。さすがに「東武バス」の文字は消されてはいたものの、オレンジのストライプっぷりはまさに東武バス。首都圏以外の方には分からないかと思うが、まあいわゆる普通の路線バスが空港にいきなり現れたのだと思って下され。乗り込んでみれば「お降りの方はこのブザーでお知らせ下さい」「窓から顔や手を出さないで下さい」の表示がそのまま残されていて、あー、これはバングラよりとんでもない国に来てしまったなぁ、と俺はこの時点で覚悟を決めたのである。

 入国審査は特に難しい事もなく、ビザさえ持っていれば何も聞かれずに通過できた。何故かゲートに置いてあるサーモビジョン(人間の体表の温度を色分けして表示するアレですな)に目を奪われながら税関の方に進んでゆくと、そのサーモビジョンに繋がっているパソコンでフリーセル(ゲーム)を始める空港職員。おいおい、のどかなのにも程があるだろ。軍事政権で民主化運動でうんぬんかんぬんと言うイメージからは予想できないのどかさである。その税関で俺は厳しく取り締まられるであろうノートパソコンの持ち込みについて相談したのだが、「オーケー、アワーカントリーイズノープロブレーム!」と実機を見もしないで税関申告書を作ってくれたし、外貨2000ドル以上を持っている場合に書かなければならない内訳書も、書いているそばから「あー、いいいい」と遮られる始末。何てアバウトな国なんだ・・・と思いながら税関を後にすると、予想以上に元気のいい客引きが早速迫ってきた。

 空港から市街までのタクシーが4ドル(これは払いすぎだ。高くても3ドルだと思うのでこれから行かれる方は気をつけられたい)。宿も特に決めていなかったので勧められるままに12ドルの宿(名前すら忘れてしまった)に行く事にして、俺達はLPガス仕様のセドリックタクシーに乗り込んだ。この車もまた日本仕様そのまんま。「路上駐車禁止」なんてステッカーがインパネに貼ってある。走り出せば、空港以上に暗い市街の景色が待っていた。街灯もまばらだし、屋台などはロウソクの灯で営業している。ダッカ市街もけっこう暗く感じたものだが、ここヤンゴンの闇は本当に深かった。

 40分ほど走り、タクシーは町外れの無名の宿に到着した。外観からは全く宿らしさを感じさせない雑居ビル。その2階を無理矢理仕切って客室をしつらえてあるような宿だった。おそらく暫く誰も来ていないのだろう、やたらにかび臭い1室に通された瞬間、妻は必死の形相でこの臭いについて憤った。インド以来、如何にカビていない部屋に泊まるかという事にこだわり続けてきた妻。何しろインドのムンバイーでカビ胞子ムンムンの部屋に泊まって以来、持ち物のほとんどにカビ臭が付き、繊維類がほとんどかびてしまったという経験を持つ妻なのである。こんな部屋には断乎として泊まるべきではない―そうは言っても結構な時間である。俺は妻をなだめ、翌朝のチェックアウトを約束してひとまずザックを置く事にしたのである。他の国ならばこんな部屋は精々6,7ドルと言った所だろう。客引きの口車に乗ってしまい、すっかりブルーになった俺達は取りあえず遅い夕食を取りに出かける事にした。

 とはいっても町外れである。宿の玄関を出れば、無味乾燥な町並みが暗闇に沈んでいる。タバコ屋台のロウソクがちらほらと見えたのだが、メシを食えるような所は見当たらない。仕方がないので暫く歩いていると、どう見ても地元民専用の食堂が見つかったのでひとまず入る事に。やたら丸っこい文字の100%ミャンマー語メニューに閉口していると、オヤジが「ヌードル?」と声を掛けてくれた。程なくして米麺スープが運ばれてきたのだが、これは何とも言えず美味だった。チャンポン風の薄口スープに野菜がたっぷりである。ミャンマー料理侮りがたし。ある意味タイ料理より日本人向けなんじゃないかと思いながらミャンマー初食事を終えたのである。

 翌朝は早起きして、早速違う宿を探しに出かけた。12ドル宿の激甘トースト(ミャンマーのトーストはもはや食パンというよりラスクである)とコーヒー風飲み物(同じく、ミャンマーのコーヒーはコーヒーというより濃い麦茶である)の朝食をそそくさと終え、コソコソとその宿をチェックアウトすると、俺達はタクシーでダウンタウンに向かった。何しろ夜の到着だったので自分たちが地図上の何処に居るかさえ分からなかったのである。

 それにしてもミャンマー、殊にヤンゴンの宿は高い。ツインは10ドル出さないと風呂付きの部屋に泊まれないし、泊まったとしても大概がかび臭く日当たりの悪い地味な部屋。1ドルを140円で買っている俺達にしてみればまさに針のむしろなのである。「ドル」という単語だけでもやたら高そうな気がするのに、実際の設備が価格に追い付いていない所が多すぎるのだ。まあヤンゴンを出てしまえば気持ちのいい部屋に出会える事が多かったのだが、首都がこんな調子だと国全体のイメージまで左右しかねないと思う。

 スーレーパゴダ、という寺のそばの宿に改めて投宿し、俺達はヤンゴンの街歩きを始めた。様々な顔つきの人々が町を行く―日本人と見まごうばかりの薄い顔の人から、漆黒のインド顔。袈裟を着た僧侶の傍らをトルコ帽のムスリムが行き、路傍にはサリー姿の物売り。ミャンマーと言えばひたすら薄い顔の人ばかりだという思い込みは一瞬にして崩れ去った。タイの続きではなく、バングラデシュの続きだといった方が納得が行く景色である。町の匂いも様々だ。北インドから東へ続く噛みたばこの習慣はこの国では最も盛んで、屋台では檳榔樹(びんろうじゅ)の葉っぱが山積みにされ、噛んだ後の赤い唾液の匂いがプンプンしているし、華人の多い街角ではいかにも中華風な八角などのスパイス臭がする。インド人の料理屋の前からはビリヤニ(カレーピラフのようなもの)の、これまたインドらしい匂いがする。もう暫く顔の濃い世界とはお別れだと思っていたのに、気分は40日前のバングラデシュにすっかり引き戻されてしまった。人々が纏うロンヂーと呼ばれる腰布もバングラ的(インドやバングラではそれをルンギーと呼ぶ。男性しか着ない)なのだが、違うのはこの国では男女ともに腰布を巻くという事だ。1枚の布を筒状に縫ったものを穿き、その端を下腹部で縛るのである。老若男女、純ビルマ人はみなその格好なのは面白い。

 ヤンゴンの外れにシュエダゴォンパゴダというミャンマーで最も有名なパゴダがあるのだが、入場料5ドルという事なので迷わずパス。というわけで3日目、俺達は無料で入れるスーレーパゴダにお参りに行く事にした。ヤンゴンの町はこのパゴダを中心に設計されており、高さは46メートル。すぐ近所にモスクがあって大音響でアザーンを流しているのがイヤミな感じなのだが、ミャンマー人の8割を占める仏教徒たちは熱心に礼拝しているのだ。靴はおろか、靴下さえ禁止の境内では老若男女が思い思いに時を過ごしていた。数珠を持って本格的に瞑想に入る人あり、隅の方で雑談に耽る人々あり、はたまた賽銭箱の番人はボーッとしていたりでなかなか興味深い。途中で大雨が降ってきたのだが、次々に人が入ってきて雨宿りをしている様子を見ていると、いかにこの国の人にとって寺が身近なものなのかが少し分かったような気がした。

 それでもまあ、ほとんど異教徒である俺達はヤンゴンのパゴダ巡りを早々に切り上げ、70キロ北東の町・バゴーに向かう事にした。いつもながら行き当たりばったりな俺達。バゴーに向かう事にしたのは「早起きしなくても行ける」「ヤンゴンの宿はツライ」というそれだけの理由なのである。

 ある朝出発した俺達は取りあえず近距離向けのバススタンドに向かう事にした。ヤンゴンの町は狭いようでいてなかなか広いので自力で行こうなどとは端から思わず、早速タクシーを捕まえる。が、しかしである。この国のタクシーの運転手は数字以外の英語が分からない事がほとんど。さらに、ミャンマー語というのはカタカナで読んでも全く通じないのだ。「ミンガラーパー」(こんにちは)「チェーズーティンパァデェ」(ありがとう)レベルの言葉さえ発音が悪ければそっぽを向かれてしまうという土地柄で地名を伝えるのは至難の業だ。俺達は仕方なくそのバス停の位置を地図で示し、車中の人となった。

 が、しかしである。タクシーは30分ほども走るとなぜか住宅街へと突入して行ったのである。片言の英語を使う運転手氏曰く、「ここがカマーユシンマライ(バス停の地名)だ」と言うのだが、どう見てもこんな所がバス停でないのは明らかだった。「違う、バ・ス・停。バスに乗る所だ」と力強く主張した所、「そのバス停は移転になった」何ですと?こりゃまた面倒くさいことになったと思いながらも、とりあえず俺達は一人だけの意見で行動して痛い目に遭った事が多々あるので、ひとまずその「跡地」までタクシーを走らせる事にしたのだった。

 果たしてタクシーはその跡地に着いた。で、しかし、と言うべきか否か、そこは駐車場になっていた・・・。やっぱり本当だったんだなぁ。疑ってゴメンよ。すると場違いな外国人を見て人が集まってくる。「どこに行くんだ?」「バゴー」・・・駐車場の門番とそんな会話をすると、その門番はバス会社のチケット売り場はここから見えるビルの反対側だからそっちへ行けと言う。近そうでいて結構な距離がありそうだった。俺達がなおも「バスがなければピックアップトラックでもいいんだけどー」と言い続けると、今度は青年に手招きされて何だか自動車部品売り場のような所に連れて行かれた。「いったいここに何が・・・」と思っていると、その小屋の裏から日本語の出来る地元民が連れてこられたではないか!侮りがたしミャンマー。で、その人にこれまでの経緯を説明すると、きっちり別のタクシーが用意され、市内某所(場所は本当にどこだか分からない)のピックアップ乗り場に連れて行ってくれた・・・。旅先で聞く日本語というのは本当に有難いもんです。

 そこからは2時間ほどの旅路。20年落ちくらいのハイラックスピックアップの荷台に木製の椅子と幌をつけたモノに乗せられて行ったのだが、これが想像を絶するキツさ。平坦な路面ならさほどでもないのだろうが、市街を離れるにつれてどんどん道が悪くなる。で、乗り合いバスと同じように次々に人を詰め込むのでもう乗車率は200%以上。車内には風呂屋の椅子のようなものが用意されており、後から来た人はそれに座らせられるというシステムなのである。まあミャンマー人は遠慮深いので某インドのように背中をテーブル代わりにされたり腕に掴まられたりということはないのだが、この暑さの中では結構辛いものがあった。

 で、ピックアップはバゴーの市街に到着。ヤンゴンとは比べるべくもない鄙びた町なのだが、ヤンゴンからの近さと数ある寺院・僧院類のお陰でなかなか人気の観光スポットなのである・・・んー、その割には本当に何もない所なのだけれども・・・。

 ピックアップを降りるとサイカーがワッと近寄ってくる。このサイカーというのはこのアジア篇で散々紹介してきたあの「リクシャー」のミャンマー版である。インド圏のリクシャーは後部に座席がある3輪自転車なのだが、このサイカーとは語源が「サイドカー」にあるといわれるとおり、そのままバイクのサイドカーと同じ形。で、その座席が背中合わせになっていて2人まで乗れるというシステム。運転者と顔が近くなるのでシャイな旅行者にはちょっとナニかも知れないが、見た目的には中々オシャレなのである。で、ここにもまた一人日本語を操るサイカーマンがいたのである。これまでの経験からいって、どんな状況でも積極的に声を掛けてくる日本語使いは絶対にボるというデータを蓄積させてきた俺達はひたすら無視。町の勝手が分からないのでとりあえずは何か乗り物に乗らなければならなかったのだが、俺達はあえて日本語を話さないサイカーに乗り、手近な宿を目指す事にした。

 バゴーの宿もなかなかに酷かった。ホットシャワー付でさらにテレビ・冷蔵庫付きという好物件だったのだが、ここがまた破壊的にかび臭い。その臭いは主に枕とマットレスから発散されており、すぐにシーツの交換を命じたもののすぐにマットレス本体の臭いが移ってしまうのだ。さらに夜になれば蚊や雲霞をはじめ、もう名も知らないような虫達が大挙して部屋に押し寄せてくるのには閉口した。良く見れば便所の窓が閉まらないようになっている・・・。これではミャンマー製蚊取り線香も形なしである。

 先述した通り、ミャンマーくんだりまで来たにも関わらずパゴダ巡りに強いモティべーションを持てない俺達はバゴー到着翌日、いつものようにダラダラと起きだして宿の近所のミャンマー茶屋(主にミルクティーを出す店)で茶をすすりつつ「適当に近場のだけ押さえときますかー」などと話していたのであるが、何とそこに昨日の日本語使いが現れたのである。これはまずい。何とか適当にあしらわなくては・・・。と思って何とか話題を観光方面とは違う方向に振ったのだが・・・まんまとやられちゃいました。まあやられたというよりも、その人力で漕ぐサイカーが正午から5時まで貸し切りで3000チャット(Kyat。1チャット=約0.16円)という激安ぶりに引かれたのである。まあこの町にはまともなタクシーもない事だし、いずれにしても何かに乗らなければならないのだからまあいいか、という訳である。

 そこからはこの旅史上初の「真っ当な観光ツアー」を楽しむ事となった。マハーゼディーパゴダやらカカットワイン僧院、タバコ工場に寝釈迦仏・・・。その日本語使いトントン氏(パンダみたいな名前だがカタカナで書くとこうなってしまうのだ)の人の良さと的確なガイドによって、今まで見ているだけではワケの分からなかった仏教のウンチクも何かと分かったりして、なかなかよい一日ではあった。

 それにしても笑えたのが彼らによる「入場料逃れ」のテクである。本来このエリアでの寺院巡りをするには一人5ドル(10ドル?)だかの共通券を買い、それを各寺院のチェックポイントで提示しなければならないという決まりになっているそうなのだが、このチェックが非常に甘いそうなのである。大体の寺では午後3時半過ぎになると係官が帰ってしまうのでフリーパスになってしまうというのだ。だから彼らサイカードライバーは観光客の便宜を図るため、早い時間には寺の外観や僧院なんかを見せておいて、その午後3時半以降になるとにわかに有料スポットに突入してゆくわけなのだ。彼はこうも言った。普通の団体ツアーのガイドはそれを知っていて、観光客からあらかじめその料金を徴収しておいて実際には3時半以降にそうした場所に案内するのだと。つまりこれならガイドは簡単に50ドルなり100ドルなりの大金を手にする事が出来てしまうわけで、まったくもってアバウトな世界である。

 トントン氏のお陰ですっかり観光しまくってしまった俺達は、予定を1日繰り上げてインレー湖という所に向かう事にした。やっと寺以外の場所が見られる。ミャンマーに憧れている皆様にとっては非常に贅沢な話で申し訳ないのだが、大方の個人旅行者は旅する事自体が目的になってしまっているのでこんなもんなのである。

 バゴーからインレー湖観光の拠点・シュエニャウンまではバスで16時間の道のりだ。で、そこから安宿街のあるニャウンシュエ(非常にまぎらわしい地名である)までがピックアップで30分ほど。前日に宿で予約をしておいたチケットを片手に宿の前で待つ事にする。この国は交通機関も結構高いのだが、そのかわりバスなら宿の目の前まで迎えに来てくれるのが嬉しい。午後1時半の約束なのだが、アジアのお約束通りやっぱりバスは来ない。10分、20分・・・と待っていると、来た!西武カラーに彩られた伊豆箱根交通バスが・・・。空港のバスもそうだったが、この国のバスは99%が日本製の中古バス。で、きちんと路線バスは路線バスに、観光バスは観光バスとして使われているのだ。日本製以外には韓国車。大宇(デウ)のバスはしばしば路線バスになっている。荷物は床下の荷物置き場に収納でき、車内は広々である。が、何だか車内が泣きそうなほどに暑いのである。燃費のためにエアコンを弱めているのか、はたまた単に壊れているだけなのか知らないがとにかく暑いのだ。しかも一番後ろの真ん中などという席に通されてしまったからもう大変。エンジンの上が熱いというのは理屈では分かるのだが、こうまであからさまにエンジンの熱気が伝わってくるバスというのはこれが初めてだ。壊れてるんじゃないかと思いつつも、バスはそのまま走り続ける。地元の人も暑いと思っているらしく、一生懸命吹き出し口を自分の方に向けているのだが効果無し。しまいには窓を開け出す乗客も現れるのだが、何故か車掌が止めに入っている・・・。みんなで窓開けた方が絶対涼しいのに・・・。

 バスが郊外に出ると、またしても激しい揺れが襲ってきた。何度も車体をジャンプさせるバス。日本の観光バスは乗り心地重視でサスを柔らかくしてあるからこういう状況になると大船に乗ったような(?)揺れを起こすのだ。これも善し悪しだと思うのだが、この点インド製バスの方が悪路には適しているような印象を受ける。座席は絶対日本製の方がいいんだけどな・・・。道幅も細いのですれ違うたびに大幅に減速されるから大変。道路状況は絶対に隣国バングラデシュの方が上だ。路肩まできっちり舗装されていて道幅も十分。他国の援助を屈託なく受け入れられる国とそうでない国の違いをまざまざと見る事が出来る。

 このバスは休憩時間の取り方も奮っていた。まず午後4時にドライブイン風食堂に入ったのだが、そこでもう皆が夕食と思しき食事を取り始めたのである。うーん、もしかしたら俺達もここで喰っておかないと食いはぐれるかも知れん。そう思ってひとまずビルマ式カレー(バングラデシュのカレーをより脂っこくした感じ。鯉などの川魚を使う点では共通だ)を食べる事に。で、時々トイレ休憩等を取りつつも時刻は9時、10時と・・・んー、やっぱり朝までメシ抜きかぁと思っていたら、11時頃突如食堂にイン。分からない・・・。で、そこではビルマ麺を喰い再びバスに乗り込んで眠れない夜を過ごしていたら、今度は朝4時に食事休憩。運転手だけではなく乗客のほとんどが降りて食事を取っているのだ。朝4時にかぁ・・・。さすがにそれは喰う気になれず、タイ製ファンタを飲みつつ休憩したのだが、ミャンマーの人々の臨機応変さというか貪欲さに感服した次第。

 予定時間よりも大分早く、バスはシュエニァウンに到着。空港並みの激しい客引きをかわしつつ1台のピックアップに腰を降ろしていると、そこには観光写真そのままのミャンマーがあった。托鉢の行列。荷車に野菜を満載して歩く牛車。花束を頭に乗せて売り歩く女達・・・。いままで散々アジアの国を旅して来ながら、ずっと朝寝坊を決め込んでいたのでこういう幻想的な景色を見るのはこれが初めてであった。走り出してみれば遥かに広がる丘陵地帯に朝霧がかかり、山すそが全て水なのではないかと思わせる水墨画の世界。うーん、これぞアジアという雰囲気に一睡もしていない疲れも吹き飛んだ。

 バゴーのトントン氏の相方が教えてくれたニャウンシュエの宿にチェックイン。これまでの宿とは違い、一軒一軒が離れになっているコテージは全くかび臭くない。しかも内装は竹で編んである「いかにも」な感じ。で、これに24時間出るホットシャワー付で8ドルなら納得だ。ミャンマーで初めてまともな宿に巡りあったか・・・。俺達はザックを降ろすと、午後2時過ぎまで眠りこけたのであった。

 ニャウンシュエは、インレー湖畔(といっても運河をボートで20分ほど下らないと湖には着かないのだが)にあるという以外には特に見るものもないのどかな街だ。外人向けのゲストハウスやメシ屋はたくさんあるのだが、どこも商売っ気がないところが気に入った。でも観光で持っている街らしく、結構大きな家が並んでいるのが田舎らしくない。しかし、昼寝を終えて街に繰り出せば、そこにはまるっきり期待を裏切らない田舎のミャンマーがあった。もっと山奥に行けばすごい暮らしぶりが見られるのだろうが、これでも十分に、今の言い方で言えば「癒される」景色である。軒を連ねる木造の商店。路上に立つ茶店や串焼き屋。テント掛けの市場では中国やタイの製品が売られ、名も知らぬ魚や野菜が並ぶ。女達の伝統的メイクである「タナカ」(「背中」に近い発音をする)もここでは塗り方が半端でない。ミャンマーには古来、タナカという木を擂り、その粉を水に溶かして顔や腕に塗る風習があるのだが、ここではかなり濃厚に縫っている人が多い気がする。自動車もまばらなそんな景色を見ていると、生まれていたわけではないのに昭和30年代、という雰囲気が感じられるのが不思議だ。見下しているつもりはないが、一見ものすごく平和に見えるのである。

 まあここではインレー湖に出るのがメインイベントである。2日の逗留後、俺達はいよいよボートをチャーターして湖に行って見る事にした。確か、1台1日8000チャット。通常は6000チャットで済むそうなのだが、俺達は「インデイン」という遺構にも足を伸ばしたのでこの価格となったのである。

 インレー湖へ―まずは町外れの船着き場へ船頭氏と歩いてゆく。途中で闇ガソリンを買ってゆくのはお約束である。船についてはどうか分からないが、この国ではクルマ1台が1ヶ月に使って良いガソリンの量が決まっており、それを越えて必要な場合にはヤミ屋から5倍ほどの金を出して買わなければならないそうなのである。だから個人チャーターの車を用意すると相応の値段を取られてしまうのである。まあそれはさておき、船着き場に着くと船首がやけにツンと尖った形の船に案内された。幅1メートル程、長さ10メートル程の木造船で、屋根などはないいたってシンプルなものだ。給油を終えると、中国製エンジンがけたたましい音を立てて回り出した。結構スピードが出る。

 まずは運河を下ってゆく。運河といっても結構幅が広いので気分は既に湖なのだが、30分もするとやはりそこが運河に過ぎなかったことに気付かされる。とにかく広いのだ。りんどう湖も鎌北湖も狭山湖も(ローカルネタ御免)バングラデシュのカプタイ湖もネパールのペワ湖も目じゃない。そして湖水は快晴だったこともあり真っ青。遥かに水草が浮き島を作り、その傍らでは漁民がその水草や魚を採っている。正確な面積は不知だが、これぞ正しい湖だぁ!と叫び出したくなる景観なのであった。

 船頭氏はその中の小島で開かれているマーケットに我々を案内した。出発から50分余り、水草の間をくぐり抜け、いくつもの水上集落を見ながら進むとひなびた船着き場に到着した。一体どんな所なのだろうと密かに期待を膨らませていると「ここから15分だから歩いて行ってね」とのお言葉が!まあそこら辺がミャンマー的で面白いのだが・・・。俺達は仕方なくそこから歩き出す事にした。♪果てーしーないー大空ムとー・・・なんて歌が相応しい景色を、少数民族の人々や牛たちを見ながら進んで行ったのだが、15分経とうが30分経とうがそのマーケットとやらが見えてこないのである。ついさっき白人とすれ違ったから多分道は間違ってないとは思うんだけど・・・。などと思いながらすっかりバテバテ状態の俺達。地元民に片言の英語で尋ねながら進む。道は間違っていないのに辿り着けない。これじゃ不動産屋の広告と同じだわ。まあ暇ならいくらでもある個人旅行者である。ちょっとしたトレッキング気分でその市場に着いたのは35分後の事であった。でもなぁ・・・市場的にはニャウンシュエ市内のものと同じ。結構期待を裏切られたりした。

 それからもいくつかの寺院や僧院、そして上に書いたインデインを巡ってきたのだが、その合間合間に船頭が土産物屋に連れてゆくのには閉口した。この湖には水上に柱を立て、板を渡して家を建てる部族が住んでいるのであるが、そんな家々の中に観光客目当ての土産物店が点在しているのである。もう、バイクや自転車でも停めるかのように家の前に船がある景色はかなり見どころなのだが、いちいち銀細工やら織物工房やら鍛冶屋やら葉巻工場やらに行かされて義理でモノを買わされるのはちょっと・・・。しかも日本円で払えるなどと甘い言葉を囁いてくるのだ。この両替がすこぶる不便な国で日本円が直接使えるというのは強い。結局散々迷った揚げ句にスカーフを2枚ほど買わされてしまったわよ。しかしまあ、こんな地方の湖の上に電気が来ていて衛星放送のパラボラアンテナがあって人々が地上と全く変わらない仕事をしているというのは結構な驚きだった。何だかヤンゴンより停電が少ない気もするし。

 そんなニャウンシュエを後にして次に向かったのがピンダヤという、インレー湖北西部の街である。普通は日帰りで洞窟寺院というのを見るのが定番なのだが、ここでは妻のたっての希望でパダウン洞窟というのを見に行こうとたくらんだのである。何でも先史時代の壁画が見られるのだそうだが、地図も行き方も全く分からなかったのである。しかしその壁画のレプリカをヤンゴンの博物館で見てしまって以来すっかり虜になってしまった妻が何としても!というのでつい来てしまったのである。

 結論から言うと、現在この洞窟に入る事は出来ないし、壁画もイギリス人だか日本人だかに取られて(?)しまったという現地の人の話である。始めにピンダヤの宿でこの洞窟について聞いた所「クローズ」と言われたのだが、その人は英語も日本語も出来なかったのでどういう事情か分からなかったのである。今日だけクローズなのか、それとも永久にクローズなのか。だとしたらそれはどんな事情で?お互いコミュニケーションが取れない状況では、何度も言うが1人だけの意見で動く事は出来ない。しかし、タクシーにも聞けないし、そもそもタクシーっぽい車なんてこの街にはないし、八方ふさがりの状態に一度はなったのである。仕方ない、定番の洞窟寺院だけ一応見ておくか・・・。と思ってその前まで行ってみて、俺達の運命は変わったのである。

 宿から20分ほど歩き、洞窟寺院へと繋がる長い長い階段のふもとに差しかかると、そこには何故かァャシィ日本語と英語を話す僧侶が居たのである。始めは特に話しかけてくる気配もなかったのだが、間合いが近づくにつれて急に笑顔になり「ニホンジンデスカ?」と来た。まあこの国の僧に限ってそんなにヤバイ奴でもないだろうと話を聞いてみると、何だかその日は子供を僧にするための祭りが開かれており、まずはそれを見てみないか、洞窟寺院はその後でもいいだろうと言う。まあ見るだけならいいだろうと思い、それが開かれている家に連れられて行ったのだが、そこでは本当に楽隊が入り、大勢の人が食事を振舞われ、二階では盛装した二人の子供達が椅子に座らされていて、どうやらその祭りは本当のようだった。ギリギリまで騙されているような気がしていたのだが、いくら何でもこんな見すぼらしい日本人を騙すためにここまでの人は動員できまい。そこでは俺達も食事を振舞われ、腹も壊さず睡眠薬も盛られずに無事生還できた。そんな視点を差し引いても本当においしいビルマ家庭料理だった。

 で、その僧はひとしきり俺達にその少年僧の写真を撮らせるといよいよ洞窟寺院へと案内した。200段、いや300段はあろうかという階段を登ったところにその寺院はある。天然の洞窟の中に様々な国の個人や法人が寄進した仏像が所狭しと並べられているのだが、まあ同じものがたくさんあり過ぎて感想としては・・・・である。

 散々歩き回ってすっかり疲れた俺達は僧と別れようとしたのだが、やっぱり、というか結局、というか、彼は5ドルのお布施を要求してきた。何でも彼は教師もしているらしく、日本語の教材はミャンマーでは高いからひとつ宜しく頼む、と下手に出て来たのである。まあ延べ3時間余りもガイドをしてもらったのでとりあえず払う事にした。さぁ、これでひとまず片は付いた。それではついでにそのパダリン洞窟には行けるのかどうか聞いてみる事にしようか。「かなり遠いけど、タクシーをチャーターすれば行ける」何ですと?「タクシーが捕まるか聞いてやるから一緒に来てくれ」。話はとんとん拍子に進む。

 門前の漆塗り工房に案内されると、僧はそこの主人に事の次第を話したらしく、主人は自転車に乗って出かけて行った。距離もタクシーの相場も分からない俺達。まあ精々往復20ドルもあれば何とかなるんじゃないかと思っていたのだが・・・。30分ほど待って、帰ってきた主人の話は何と40ドル!俺的為替レートでは5720円!一体これだけあれば何日暮らせる事か。しかし、である。俺達の真の狙いはこちらのパダウン洞窟に行くこと。特に妻にして見ればこここそがミャンマー最大の見どころなのである。もう知らん。何ドルでも持って行ってくれたまえ。

 そして1台のピックアップが店の前に横付けされると、その僧も「人が余り行かない所だから私が道案内をします」と一緒に乗り込んでくる。おーい、もうお布施勘弁っすよー。と思いつつも抗いきれずに発車。頭を強打しながらの悪路である。それを90分ほど。途中の小パゴダで地元の人に道を聞いているのには参ったものだ。で、結局ピックアップはある村の民家に到着し、運転手と僧、そして僧は英語でのたまったのである。「これ以上先はぬかるんでて行けないから歩いて行きます。フューミニッツです」フューミニッツ、と言えばまあ精々4,5分の所だろうと思ったのだが・・・。40ドルも払わされて、結局歩かされる観光地は初めてである。

 穏やかな丘陵地帯ながら、道は悪路を極めていた。粘土質の土はつるつる滑り、歩行者用に積み上げられた路肩の石や竹も役に立たない。フューミニッツと思いながら気楽に歩き始めたのだが、行けども行けども洞窟のどの字も見えてこない。嵌まった・・・。ガイドを務めてくれたその民家の兄貴はどんどんペースを速める一方で、僧は僧で疲れ切って段々ペースダウン。いつの間にやらガイド、俺達、僧の順番で歩く事になったのである。坊主よ、君が道を知っているというから頼んだのだ・・・。

 結局40分ほどして件の洞窟に到着。しっかし小さな祠と仏像が数体あるだけで、穴の入り口は見えてこない。僧はその祠にひざまずいてもっともらしい、ありがたーい念仏を唱えた後、例の地元ガイドとひとしきり話してこういったのである。「この洞窟は7ヶ月前から閉鎖されている。奥にいる蛇に噛まれて何人か死んだからだ。それに入っても壁画は奪われていて見ることは出来ない」、と・・・。うぁ゛ム40ドルとこれまでの2時間を返せぇぇえ!「2年前に自分が来た時には入れたんだが・・・」という僧の言葉に呆れつつ、その洞窟前に佇んだ俺達なのであった。

 結局そのままとって返し、またも僧に5ドル取られるという散々な経験をした俺達。最新版の「地○の歩○方」にもこの洞窟の件は書いてあるが、みんな騙されてはいけない。地元の人がクローズと言ったら本当にクローズなのだから・・・。
 ここまでで旅程の3分の2を消化していた俺達は、ピンダヤの思い出をかなぐり捨てるように次の街・マンダレーに向かった。ミャンマー中部の大都市であり、古い王朝の宮殿跡や、市街外れにある丘などの景観で有名な街である。そこへと向かったのも当然のことながらバスで、である。もうここまで来ればどんなバスでもウェルカムと言えよう。

 朝5時半発のバスに乗るため、俺達はバス乗り場とも言えない街の一番大きな交差点に向かうことにした。いつも思うのだが、アジアの人々の朝は本当に早い。こんな時間だというのに屋台は店開きをしているし、茶店にはもう客がついている。交通が不便だからどこかに行くに当たって早起きしなければならないのは分かるのだが、日本でこんなに早朝のバスがあるからといって町自体が活気づくことがあるだろうか?ただ見詰めていると、ちっとも眠そうに見えない街の人々の喧騒をバスの轟音があっけなく切り裂いてくれる。どうやら目的のバスが来たようだ。急いで乗り込むと、後から後から荷物と人が詰め込まれ、ついには例の「風呂場椅子」に座らせられる始末。何で始めから乗っているのに風呂場椅子なんだよ?という文句を発する間も無くあっという間に満席になった。

 と、外から少年僧が泣きながらバスの方に迫ってきた。どうやらこのバスに乗っている親達と引き離されるようである。最初はバスの外で嗚咽を漏らしていただけなのだが、遂にはバスに乗り込んできてすっかり子供に還る少年僧。しばらくはおとなしくしていたのだが、遂には大声で泣き出してしまった。その間にも周囲の人々は無反応。もしかしたらこれはごくありふれた光景なのかも知れない。ついにはその祖父と思しき人物が泣きわめく彼を担ぎ上げてバスの外に連れ出してしまったのだった。しかし彼はまだ外で祖父をぶってみたり、騒いでみたり。ミャンマーではそこら中にいる僧侶なのであるが、落ち着き払っている彼らにもこうした過去があるんだなと思うと何だか親しみが湧いてきた次第である。

 アウンバンという街でバスを乗り換え、さらにもう一度メィッティーラで乗り換え。このバスたちも相当に酷かった。日本のマイクロバスそのままの車体に乗車率300パーセント(屋根上も含む)、さらにそれで工事中の山道を延べ6時間も行くのである。車に酔いやすい妻が悪心を訴えるのは当然としても、地元ミャンマー人も相当に辛そうな様子。なぜかミャンマーではゲロを吐いている地元民を沢山見るのである。それでも景色はなかなか壮観。春先のネパール山中を思わせる緑の多さと、手付かずの地平線。ミャンマーといえば山がちという先入観があったのだが、これまでの旅で最も地平線が見えたのはここミャンマーである。

 夕方になり、ようやくマンダレー市街に到着。宿の目星は付いていたのだが、何となくピックアップの運ちゃんの勧めのままにチェックイン。ここはなかなかに良い宿だった。8ドルでバスタブ・テレビ・冷蔵庫・エアコン付。まあナイロン・ホテルの事なのであるが、ここは本当におすすめである。ロビーにたむろしてる兄ちゃんたちがやたらと構ってきて煩いという意見もあるのだが・・・。その中の一人によれば、俺はミャンマーの歌手「トゥ・ウェン・ティン」にそっくりなのだそうである。最後まで彼のCDを探していたのだが見つからなかったのが残念である。

 ミャンマー一週間短縮を決めたのはここマンダレーでの事であった。もう二週間余りで6万円も掛かっているし、ピンダヤでの40ドルのダメージも尾を引いている。とらの子の日本円キャッシュをバンバン両替してゆくのはいかにも心苦しい。よし決めた。もうパゴダ系はいいから、さっさとタイに戻っちゃうぞー。

 翌朝は市場なぞをフラフラと。この国の市場はどこに行ってもまったく雰囲気が一緒である。建物に入っている市場であれば何となく島が決まっていて似たようなものを集団で売っているし、屋外の市場であっても品ぞろえやテントのつくり、そして何故か店が並ぶ間隔まで同じように見える。お陰でどの市場に行っても目的の品がすぐ見つかるというメリットはあるのだが、市場の地方色、という点はイマイチかも知れない。あー、いかん。早くもミャンマーに飽きてきてしまった。自分の金で自分の時間を使って、しかも一年間の年限で海外に出て来ている俺達夫婦にとって「飽きた」というのは禁句なのだが、この頃の俺達はいつもこの3文字を頭に浮かべていたような気がする。

 二日目である。何処に行こうにも入場料攻めで、さてどうしようと思っていた俺の脳裏にふと、宿のフロントにあった日本料理屋のビラが浮かんだ。そうだ、ここを冷やかして雑誌なんかを読んでいれば首尾よく時間を潰せるかも知れない・・・。

 向かったのは王宮そばの「ホームパーティー」(80thRoad,Between15th&16thSt,Mandalay)という店である。お昼前の店内では何故か地元民が定食を食べている。もう日本人でワンサカ・・・というのはイメージしていなかったのだが、他の国の日本料理屋(タイは除く)に地元民なんかほとんど居ない事を思えば結構な驚きである。店内のマガジンラックには何故かクラシックワーゲンとインテリア雑誌が並び、この辺も何だか違和感。とりあえずカツ丼800Kを注文して食べてみるとこれがかなり上等。ネパールの味のシルクロードよりウマイ。これはよっぽどの腕前・・・と思いつつ雑誌をめくりつつ食べ終わると、ちょっと若めのお兄さんが出て来て「あーどうもどうも、ゆっくりしてって下さいよ、ちょっと今起きたんでシャワー浴びてきますわ」なんてフランクな人なんだ・・・。しかしでもまあ、食べ終わってから大分時間も経つのでおいとまさせてもらうことに。この時点で俺達は彼の「待っていてほしい」というニュアンスを掴んでいなかったのである。

 しかし、相変わらず暇だ暇だといいながら動物園の方に向かって歩き出す俺達を後ろから自転車で追いかけてきたのは他ならぬそのお兄さん。「んもー、待っててっていったのにぃー」・・・。すいません。久しぶりに日本人と話すので察するパワーが落ちてました。で、そのまま近所の茶店で雑談モードに。彼こと池田氏は29歳。ミャンマー好きが高じてこの2003年10月1日からこの場所に店を出したのだという。正確に言えば以前はほかの場所で店をやっていたので、これは新装開店ということになろうか。さまざまな話を聞かせてもらったのだが、この店についてのポリシーは奮っていた。要約すれば、「地元民が入れないような日本料理屋では意味がない。ミャンマー人のプライドを高めるためにも、安い値段で地元の材料のみで日本料理を作ってゆきたい」との事であった。うーん、どれだけ日本産の材料を使っているかを競う他の和食屋にアンチを唱えるその思想。定食にミネストローネがついてくるのはそういう訳だったのね・・・。

 それからはお互い(?)暇なのをいいことにすっかり遊ばせてもらった。共同経営者のアウンウィン氏のお宅訪問、そして氏の愛車ワーゲントランスポーターでの市内観光。そして旅行代理店に連れて行ってもらい、帰タイ便の予約変更もスムーズに出来た。「両替やらリコンファームで困っている日本人の手助けをしたい」というのも彼の店の理念らしいので、マンダレーを訪れる方は是非一度覗いて見て下され。市内観光のオプション?として、お店のビラ配りも手伝ってきたわよ。ゼェージョーマーケットで店員やら客に夫婦してビラを配ってまいりました。ああ、9ヶ月ぶりの労働なり。それからもビアガーデンに行ったりしつつ、晩飯もその店で食べてしまったのだった。まさにマンダレーのオアシス。

 そんなこんなで三日間のマンダレー滞在を終え、つぎに向かったのがバガンという街。冒頭に書いた「入域料10ドル」の街である。バゴーと違い、この街に入るに当たっては船で行こうが飛行機で行こうがバスで行こうがしっかり関所がオープンしていて逃れる術が無いのである。しかも取り漏らしのないよう、最初の宿で領収書のチェックを受けるのだからたまらない。タージマハルに入らなかった事でも分かるように、入場料を蛇蝎のごとく嫌う俺達。しかしどうもミャンマーに来ておいてバガンに行かない者は人にあらず、という雰囲気を感じたので行って見ることにした。

 名勝地ポッパ山に、2000とも3000とも言われる仏跡。聞けばここはアンコールワット・ボロブドゥールとならぶ三大遺跡ゾーンなのだった。しかし、滞在できるのは2日のみ。俺達は航空券を早めてしまったことをちょっとだけ後悔しつつ、大散財をしながらハイライトだけ見て回ったのである。タイのアユタヤーを10倍くらい広くしたような景色はまさに壮観である。しかしこれはミャンマー全体に言えることなのだが、なぜだか白人の年寄りのツアー客が多い。人が炎天下、一生懸命レンタサイクルをこいでいるところにそういうバスで乗りつけられるとなんかムカツクわー。

 ミャンマー入国以来19日目、かくして俺達はヤンゴンに戻ってきた。後2日はリコンファームでもして、後はひたすらミャンマーメシでも堪能するかと思っていたのだが、ここで2人の日本人と出会ってすっかり退屈しない日々を送ることが出来たのである。片方は名前を聞かなかったのでA氏(31歳男性)、もうお1人はM氏(32歳女性)お2人とも「いかにも」バックパッカー的な境遇を過ごされて来た方で、俺達のまだ踏み入れていないカンボジアやラオス・ベトナムの話を沢山聞かせて頂いた。Mさん読んでますかー。おかげで最後の夜には日本料理屋で大騒ぎ。なんだかんだ言っても楽しかったミャンマーの旅の最後を飾ることが出来た。

 Mさんとはバンコクまで一緒に帰ってきたのであるが、この時のビーマン航空の手際の悪さにはかなり笑えた。搭乗20分くらい前になって職員が「満席のようなのでアップグレード(エコノミーが満席になってしまった時にその切符のままファーストやビジネスに乗せてくれるというとてもラッキーな状態。飛行機界の確率変動か?)になります」と囁いてきたのである。なぬ?アップグレードとな?旅生活の長いM氏にとっても、そして俺達にとってもこれは初体験。いやー、やるじゃないかビーマン。係員の誘導に従って貧民どもを見送り、後の方から「東武バス」に乗り込む俺達。が、しかし、タラップに登った瞬間、「やっぱり都合がついたのでアップグレードはなしです」はぁ?777で揃ったのに再抽選で666に格下げみたいなものである。パチンコ分からない方には何を言っているのか分からないかと思うが、要はかなりアンラッキーな状態なのである。で、席はフリーだという。自由席?良く分からんと思いつつ乗り込んでみればファーストはギッチリ満席、しかもエコノミーの廊下には人だらけ。いくらバングラデシュのエアラインだからって飛行機まで立ち乗りなのかぁー?と思いつつしばらく待っていると、スッチーが次々に「お前はここに座れ」と指示を出している。結局皆が着席するのに20分くらいかかっていた。1時間のフライトだからまあ許すが、一体どうなっているんだか・・・。

 と、いうわけでこの稿は前々回と同じ、バンコクはホワイトロッジで書いている。もうこの旅で4度目になるので、気分はすっかり勝手知ったる他人の家である。でも何だか最近フロントのおねいさんが俺達の事を怪しんでいるような気が・・・。全ての日本人がこうだと思われては困るが、安宿なんだからこういう旅の仕方も理解して欲しいもんです。

 今度はラオスに向かうべくビザを申請中。ビザがおりたらまたしばらくアユタヤーの例の宿で沈没しつつ鋭気を養い、タイ東北部を見てラオスに上陸(地続きというか、メコン河を渡るだけなんですが)する予定。それまでは掲示板の方にもちょくちょく出ようと思ってますんで、皆様ひとつよしなに・・・。

2003年11月4日 タイ バンコク ホワイトロッジにて


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