恍惚コラム...

第207回―アジア篇 第7回

 ついにコンセントすらない宿にぶち当たってしまったのである。一昨日到着したカルカッタなのであるが、やはり大都市、放っておいても人が集まると言う事で何処の宿も値段が強気。しばらく物価の安い南インドにいたので、こちらの値段にはどうも馴染めない。俺達はカジューラーホーからの延べ24時間にわたる移動の後、朦朧とした意識で早速この安宿街「サダルストリート」に来た訳なのだが、どんなに汚い宿でも便所とシャワーさえ室内にあれば最低200ルピー。このコラム(アジア篇)を続けて読んで頂いている諸兄ならお分かりだろうが、200ルピーというのは「下の下」「下の上」を分かつ大いなる分水嶺である。「下の下」というのは、俺なりに言わせてもらえば(1)道路に面する窓がない(2)ホットシャワーがない(3)壁の塗装が剥げている、などといったところだろうか。しかし今俺がいるこの「ホテルパラゴン」は、この全ての条件をクリアしているのに何と250ルピーもしちまいやがるのである。しかも、コンセントなし。始めの1泊はまあ我慢して、翌日他をあたるか・・・。などと考えていたのだが、根が面倒くさがりな俺の事。本日3日目になってもこの状況に甘んじてしまっているのである。下見で4軒ホテル見たけど、どっこもカビ臭くてたまらんかったからなぁ・・・。ではどうしてアンタはパワーブックを使っているのかって?それは、元々電球のソケットが付いていたところのリード線がぶら下がっていたからそれを拝借したのである。何故か俺は日本から分岐タップを持ってきていたので、そのプラグをリード線に巻き付けて使っていると言う、何とも原始的な方法なのである。こんな単純な事に気づくのに3日もかかったのは情けないが、なかなかのものだと自負している。旅に出てから今まで一度も使った事のない分岐タップにこんな使い道があろうとは思わなかったんである。それにしてもインド人はコンセントにいきなりリード線を突っ込んで使っている事が多いから、これでもまだエレガントな使い方なんである。

 さて、それでは旅の話の続きに入ろう。前回はアウランガーバードという所まで行ったので、その次の目的地・ゴアのお話から。

 アウランガーバードの午前11時。もうどこのバス停でも目的地を連呼しさえすれば自動的に目的地に行けるという味を覚えてしまった俺達はもう何も考えずにリクシャーを駆り、バス停に向かっていた。北インドは内陸部にもしっかり雨期が来ていて、この街でもついに青空を見る事はなかったのである。遺跡がなければ全く何の変哲もない街であった。遠くには麦畑が見え、昼ももう近いのに男達が路上でたむろしていた。

 リクシャーがバス停に着くや否や、客引きの男が早速ズバリのセールストークを仕掛けて来た。「プネー?」プネーと言うのはゴアに行くために1度乗り換えるための街である。俺達はこういう類の客引きには普段は付いて行かないのだが、その男が何故だかやたらと俺達を急かすので、出発が近いのだと思い素直に着いてゆく事にしたのである。値段もまあ納得の行くものだった。ここまでの経験上、バスはそんなにボらないという事もあり、俺達はリクシャマンに15ルピーを払うと早速バスの方に向かったのである。

 連れて行かれたのはバス停から300メートルも離れた旅行代理店。その目の前に白い塗装のツーリストバスが横付けされ、すでに多くのインド人乗客が出発を待っていた。「11時半出発だから早く乗れ」と男は言ったものだが、実は俺達はまだ朝飯を済ませていなかったのである。バススタンドをはじめ、人の集まる所には必ず屋台が出て軽食を出している。それを当て込んで出かけたところが、今まさに出発の時。普段は時間にルーズなインドなのに、まだ15分前から急かされてはたまらない。俺達はチケットを買い、目の前の小じゃれた茶店でイドリーサンバル(米で出来た蒸しパン(イドリー)に酸味のある薄いカレー(サンバル)を掛けた食べ物。朝食としてポピュラー)を食べる事にした。もちろん、その間は気が気でない。インドではバスも列車も大した合図もなく発車してしまうからだ。やたら緩慢な店員を急かし、10分ちょっとの朝食が済んだ。

 プネーまでの道のりは5時間。果てしなく広がる田園風景と、時折降る雨。ここいらの雨は降り方が尋常ではなく、日本の関東地方では台風が直撃でもしなければ見られないほどの勢いで叩きつけてくる。雨の強さのせいかどうかは知らないが、その雨の最中、バスの前方で水が漏れる音がした。そちらを見ると、なぜか閉まっているはずの窓から水がホースで注がれるように入ってきている。油断ならない・・・。にもかかわらず乗客は全員落ち着き払い、車掌がその窓ガラスをクッと嵌め直すだけですべては解決したのだった。日本で同じ事が起きればまずクリーニング代をお支払いして、直ちに代車をご用意して・・・。となるところだろうに。これを大らかさとみるか、はたまた怠慢と見るかは個人の自由なのであるが、この程度の事で腹を立てていてはインドには3日と居られないだろう。もちろんそんな中でも運転手はロクにワイパーも動かさずに前方の車をガンガン煽っている。

 さてもプネー市街にバスは入って行った。意外と大きな街で、街を感じてからバスが停まるまでに30分程度掛かっただろうか。実は、ここでどう乗り換えればゴア方面に行けるのかは曖昧だったのである。しかし、車掌は「お前の目的地はここだ」と言って俺達をバスから降ろそうとする。まあこういう場合に嘘をつかれたことはまだ1度もないのでとりあえず降りてみると、謀ったかのように1台のリクシャーが待ち構えていた。俺達は「正規のバススタンドに連れて行って欲しい」と言ったのだが、そのリクシャマンは「ゴアに行くには駅の方のバススタンドに行かなきゃダメだ」といって聞かない。その時、時刻は17時40分くらいだっただろうか。わずかな情報によれば、ゴア行きのバスは18時発だという。俺達はそのリクシャマンに運命を託すことにした。

 10分ほど走った所で、リクシャマンはある旅行代理店の前でリクシャーを停めた。おい、バススタンドに行くんじゃないのかよ!と俺達は不安と怒りを隠せない。リクシャーが頼みもしないのに旅行代理店に連れてゆくという事は、100%「ボリ」を意味しているからだ。リクシャーから降りる、降りないで揉めていると、その店の中からオヤジが出て来てこう言ったのである。「もう6時発のバスは出発している。」・・・。しかし、である。その代理店の前の道を、まさにそのバスが渋滞に阻まれてノロノロ進んでいるではないか!オヤジも俺達もにわかに色めき立ち、何だか分からないうちにバスに乗り込む事となってしまったのであった。結果としては新車のいいバスに安く乗れたのでオーライなのであるが、あのリクシャーには感謝すべきなのか否か・・・。いや、偶然とは言え、待ち時間0でバスに乗れたのだから有難い事だ。

 そこからはひたすら7時間余りのバス旅である。日本の高級観光バスと遜色ないバスで行くのだからもう何の不満もないのである。しかし、今6時。6時+7時間は午前1時。そんな時間に着いたら宿探しが厄介だろうなと、そればかりが気掛かりなのであった。

 しかし、それもインドが見事に裏切ってくれたのである。途中の長い国道が至る所工事中で迂回路だらけ。しかも凹凸だらけだからスピードも全然出ない。途中の休憩時間などもあり、バスは見事に5時間遅れの朝6時過ぎに着いてくれたのであった。やはり知らない街に着くのは明るい時間の方がいい。バスに長時間乗るのは辛いものがあったが、1泊の宿代が浮くと思えば何の事はないのである。

 空が明るくなってくると、見える木見える木がみんなヤシの木。水田には植えたての稲がそよいでいた。一晩寝たらいきなりこれである。つい昨日まで岩山を開拓した遺跡を見ていたのに、同じ亜大陸の中にかくも色々な気候があるものかと素直に感激してしまった。知らずに2ヶ所の写真を並べて見せられたらとても同じ国とは思えないだろうこの景色。

 ゴアを訪れるには春か秋の方が良いと言われている。日本の夏休みにあたる時期にはモンスーンにあたり、海はしけて泳げないわ1日何度もスコールが来るわで大変だと俺達も聞かされていた。しかしゴア(注:ゴアというのは現在州の名前であり、その州都はパナジと言うのである)はカラングートビーチにリクシャーで降り立った俺達は、今までに見た事がなかった「静かなインド」に一気に魅了されてしまったのである。他の何処とも違う、うら寂しい雰囲気―車もまばら、人もまばら、海岸にはインド人しかおらず、土産物屋が一日中ボーッとしている―はどこか季節外れの温泉地を思わせ、懐かしささえ感じてしまった。天気も着いた時には薄曇り程度。これなら長逗留できそうだ・・・。早速海辺の民宿風情に投宿すると、俺達はそんな街の中をうろつき回った。

 アラビア海に洗われるビーチでは、野良犬と野良牛がうろうろ。インド人アベックもランデヴー中。そうかと思えばいい大人が一生懸命波と格闘していた。外人相手のスーパーマーケットには何でも揃っていて、いかにもリゾートという風情。レストランは海辺だけに海鮮料理をウリにしていて、これまで内陸部では見た事もなかった料理がメニューに並ぶ。道端にはヒンドゥーの神々よりも十字架が多く、俺達はうろつきながら「ここはインドじゃない、ゴアという国なんだ」という結論に至ったのであった。

 それから6日間逗留したのだが、もう連日に亘って親の敵のようにエビや魚を食いまくったのは言うまでもない。輸送技術が発達していない所では、或るものを食そうと思えばそれが採れるところまで出向いてゆくのが礼儀というもの。北インドではタンパク源は豆、鶏、マトンしかなかったのにいきなり魚介類を目の前に出されてはもう辛抱たまらぬ。で、味付けの方も旧宗主国のポルトガルの影響かどうか、ボディーブローのようにどっしりと辛い普通のインド料理にくらべて軽口でイケるのである。簡単に言えば、コショウのような北、唐辛子主体の南、と言えるだろうか。今まで出会えそうで出会えなかった「エビカレー」を、俺達は毎晩食い続けたのである。それにしても、普通のインド人が日本に来たらカレーはちょっと食べづらいのではないだろうか。何しろどっちを向いても「ビーフカレー」ばかりだから。ヒンドゥー教徒が8割以上を占めるインドにはビーフカレーはまずないのである。しかし、それだってゴアにはあるのだ。とりあえず、北インドの食べ物に食傷したらゴアをはじめとする南インドに行くのがオススメなのである。

 そんなある日、妻のかねてからの懸案であった「市場で貝を買ってきて自分で茹でて食べる」というのを決行する時がやって来た。ビーチ周辺のレストランでは何処でも魚介類を出すのにも拘わらず、それを何処で仕入れているのか暫く分からなかった俺達なのだが、あるとき市場を発見。そこで早速アサリと子エビを買い込んで煮込んでみる事に相成ったのである。とは言っても長旅の中途。大した調理器具や調味料などあるはずもない。俺達は簡易式コイルヒーターとステンレス製マグカップ、そしてチベットで買ってきた塩だけでアサリとエビを調理したのである。

 アサリ500g程で5ルピー。エビは200g程で15ルピーほどだっただろうか。アサリは塩抜きをし、エビは背わたを取る。で、それと若干の塩をカップに入れ、ヒーターで煮ておしまい。もはや料理とは言えないシロモノだったのだが、もうその旨さは筆舌に尽くしがたいものがあった。かつて味わった事のないアサリの身のプリプリ感。そして、こんなに安くていいかしらと思わせるエビの量。もう埼玉辺りで魚介類なんか2度と食えないなぁなどと本気で話しあってしまうお味なのであった。これは2日ばかり続き、俺達はすっかり海の人となったのであった。

 しかしまあアラビア海である。北海道に「水平線が丸く見える岬」なるものがあるらしいが、このカラングートビーチにもそれほどではないが見事に何もない眺望が拓けている。この旅始まって以来、3度目の海。3度目とは言っても最初は船の中から東シナ海を見ただけ、次もムンバイーでナントカ湾を船の中から見ただけ、本格的に海岸に立つのはこれが初めてだったのである。まあ乗り物に乗って来ればいつかは海岸にも出るだろう、と頭の中では考えるのだが、現にこうして尤もらしい名前の海を目の前にするときにわき出てくるのは感慨以外の何物でもない。世界にはいくらでも海岸はあろうが、この旅の突端に出て来たんだなぁという感慨を含めて見るとこのビーチの景色は自分だけのもの、という気がしてくるのであった。

 さて、ゴアに当分居ても大勢に影響はなかったのだが、いくら何でも9月前にはインドを出なければなるまい、ということになり、俺達はさらに南を目指した。次の目的地はマンガロール。一気にコーチン(後述)まで出れば良かったものの、どういういきさつでかこのマイナーな都市に降り立つ運命になってしまったのであった。いや、実はゴア側から内陸部経由でチェンナイ(マドラス)に出ようとしていたところが、1発で行ける列車がなかったというだけの話なのであるが・・・。

 インドの列車にはすっかり慣れきってしまっていた。日本に居たって寝台車になんか殆ど乗らない(実際、日本で寝台列車に乗ったのは小学6年生の時が最後だから、何と15年ぶりなのだ)くせに、インドに来てからはほぼ4〜5日おきに、もう6回以上乗っていた。1000キロ移動しても1人1000円しない気安さと、バスと違って(少しは)時間が読めるので、インドの旅と言えば列車というのがバックパッカーの間での定説である。いつものように切符を取り、発車1時間前には駅に行き、遅れがちな列車をうだうだと待って乗り込めば、ビニール張りの3段寝台が待っている・・・。その日も、そんな当たり前の列車の旅が始まるはずだった。だが、そもそも始まりからして不調だったのである。パナジ市の中心にはまず駅がないので、列車に乗るためにはバスで30キロほど離れたマドガオンという街まで行かなければならないのであるが、まずそのバスがオーバーヒートして客室内に蒸気を撒き散らしていた。何故か当地のバスの古いものはラジエーターの給水口が運転席のすぐそばに付いているのである。まあオーバーヒートをすぐ知るための?配慮なのかどうかは知らないが、前の方の席に乗っていた俺達は生ぬるい蒸気と生ぬるい汚水を浴びてしまったのである。で、当然バスはしばらく停車。それでも宿を夕方にはチェックアウトしなければならなかった俺達。午前0時の列車までにはあと7時間以上もあったので全然問題なかったのだが・・・。というか、7時間も余らせる俺達も俺達なのだが・・・。

 駅に着き、出発ホームを確認しようとカウンターに行くと、「今日は列車が全体的に3時間遅れている。午前0時ごろにまた来てくれ」というお返事。あ゛あ゛?まあ、これ自体は全然珍しい事ではないのだけれど、午前0時の列車を7時間も前から待っている身としては非常にツライ。ツラ過ぎる。かといってパナジ市街まで戻るのもバカらしいし、田舎町に忽然と作られた駅周辺には時間を潰せる場所なぞ存在しないのである。しかし、こんな状況―日本ならばテレビ中継が来て、乗客は振替輸送を求めて駅員に襲いかかるような列車の遅れ―でも、仕事でなければ全然許せる。日本に居て仕事をしている身ならば、何とか遅延証明書だけでも貰っておかないと上司に言い訳が出来ないなぁなどと思う所なのだろうが、放浪中の身である。何時間遅れようが勝手にしやがれ、といった所なのである。

 で、俺達は無為な時間をひたすら過ごす事になったのである。時を追うにつれホームには同じ境遇に追い込まれたインド人が段々増えてきたのであるが、彼らの全く動じない姿勢には全く驚かされるとしか言い様がない。まあ確かに暇そうにしているのは確かなのであるが、彼らが忙しそうにしている姿をまず見た事がないので、どんな態度をとっていてもあくまでも平常心を感じさせるのである。これは或る意味超然としているとは言えまいか。列車がいつも遅れる国に生まれたのだから当然、と断じるだけでは惜しい何かがあるのだった。しかも電力事情からか、この待ち時間の間に数回停電があったのだが、その間も誰も慌てず騒がず。持参した懐中電灯を使って平然としたものである。・・・。この姿勢、見習おうと思っても日本に帰ったらとても無理だ。何だか騒がなければいけないような雰囲気が日本にはあると思ったのである。

 足下で焚いていた蚊取り線香が間も無く消えようとするころ、何の前触れもなく列車がホームに滑り込んできた。午前2時過ぎの事である。3時過ぎに来ると言っていた列車が早く来てしまったのだから構内放送の一つもあっていいようなものだが、ここでも周りは静かなもの。俺達は万一のことを考え、これが本当に目的の列車かどうかを駅員に確かめてから列車に乗り込んだ。予定より2時間遅れ。翌朝9時までの列車の旅が始まった。

 相も変わらずヤシの木だらけの田園風景を抜けると、列車は段々とマンガロールの市街地に入って行った。カルナータカ州の州都と言う割にとてもひなびた駅だった。駅の出口に立ってもリクシャーはまばら。地図も持たずにやって来てしまったのでリクシャーに頼らざるを得なかったのだが、ここではほとんど選択肢なし。一蓮托生とそこらにいたオヤジのリクシャーの言うままに、ホテルのセレクトまでお願いしてしまったのだ。
 まったく観光地化されていない街の事である。オヤジは変な土産物屋やら旅行代理店に俺達を連れ込む事もなく、1軒のホテルに俺達を案内した。しかし、そこが満室。ホテルが満室で断られたのは俺達にとっては初体験だった。しかしまあ徒歩ではないので早速オヤジに代案を立ててもらい、2件目の宿へ。そこはいかにも商人宿という感じのモッサイ所だったのだが、どうせ1泊だけの仮の宿である。「2軒回ったんだからもう5ルピーよこせ」というオヤジにきっちり言い値の15ルピーを払い、俺達はそこに投宿する事にしたのだった。

 何もない街に、ただ1泊。溜まった洗濯物を片づける以外に何もすることがなかった俺達なのだが、とりあえず世界中どこにいても腹は減る。そんなわけで到着早々、全く外国人狙いの店がない街に繰り出したのだが・・・これが驚くほどに、何でも安いのである。1品60円以上のメニューを探すのは難しく、45円も払えば胃がマックス状態になる店ばかり。観光地では一杯30〜40ルピー(84〜112円)は軽く取られる100%生ジュースも当地ではジョッキ1杯10ルピー(28円)均一。それでいてどこでも旨いのである。この現実に俺達は唸った。1日半の滞在中に、2人で生ジュースを8杯近く平らげて、「この街はもっと広く紹介されるべきだ」と心から思ったのである。これで宿が揃えば南インドグルメ探求の街として大ブームが起きる、はずだと。北インドのナン・チャパティーはどうしても飽きがきてしまうのだが、南インドは米食が主。で、それに魚やら鶏やらの「薄い」カレーが付いてくるのである。もちろん菜食主義メニューも多いのだが、それも勿論イケる。インドならではの超ビッグオクラ(長さ15センチほど!)の硬さにはしばしば閉口するが、「野菜だけでもこんなに!」と思わせるスパイスの効果を存分に楽しませてくれるのが南インド料理である。マンゴーやライムをそのまま漬け込んだピクルス(アチャールと呼ぶ。これは北インドとネパールにも共通の呼び名だが、果物がそのまま入っているのは南インドならではだ)の酸味も爽やかだ。当然、もう少し滞在を・・・とは考えたのだが、悲しいかな翌日の切符は既に予約済み。どんどん南下するしかなかったのである。

 で、翌日夕には再び車中の人となった俺達。今度の列車は見事に定刻通りの発車である。目的地はコーチン。ケーララ州という、インド南端西部の州に有る街である。ここには未だにユダヤ人の末裔が住み、ユダヤ教やキリスト教の信者も多いというヨーロッパ的な香りのある街なのだ。まだまだ続くヤシの木だらけの景色に飽きた頃、列車はエルナクラム・ジャンクションという駅に着いた。

 この街での目的は、(勿論)史跡探訪なんぞではなく、この土地独特の漁法「チャイニーズ・フィッシングネット」を見物し、かつそこで採れたての魚介類を食することであった。ゴア・マンガロールと沿岸部を暫くめぐってきた俺達だったのだが、まだまだ魚介類への渇きは癒えていなかったのである。埼玉くんだりで生まれても、やはり島国の民である。魚介類へのこだわりは断ち難いものがある。

 しかし、その前に驚かされたのはコーヒーの安さとその味についてである。ご存知の方もあるかもしれないが、何故かインドでは「ネスカフェ」の方が高級品と見なされ、なかなかレギュラーコーヒーを飲む事が出来ないのである。しかもその両方を取り揃えている店でも「ネスカフェ」の方が高いのである。俺なぞは喜んで「フィルターコーヒー」を飲むのであるが、そのネスカフェの半額のコーヒーを飲むたびに納得できない思いがするのであった。そう、南インドはコーヒーの産地でもあるのだった。到着日の朝、半ばバカにしながら入ったチェーン店「インディアン・コーヒーハウス」で俺達は魚よりも何よりもコーヒーの味に仰天してしまったのだった。いかにも古いインド式建物。窓ガラスにはペンキでいきなり様々な文字が書かれてあって、薄暗い店内では地元民が質素なテーブルに向かって質素な軽食をとっている・・・。俺達が注文したのは「セットコーヒー」(8ルピー)で、ポットに入ったブラックコーヒーに砂糖とミルクが付いてくるというものだったのだが、一口含んだ途端にヘヴンが口の中にやって来たのだった。「何これ・・・」8ルピーと言えば22円である。で、300mlもの超本格レギュラーコーヒーが出て来てしまったのだ。もうド○ールも珈○館も談○室○沢も不要。勝ち目全然なし。その後毎朝通ってしまったのは言うまでもない。

 さて、滞在2日目である。俺達は例の「チャイニーズフィッシングネット」を見るために桟橋からボートに乗った。片道5ルピーほど。数個の島で構成されているこの街ではボートがバス代わりと言っていいほど頻繁に使われていて、地元民も観光客もしばしばお世話になるのだった。

 チャイニーズフィッシングネット、というのは平たく言えば大型の四つ手網である。約5メートル四方の木枠の網が、これまた木製のシーソーのようなものにくくりつけられており、そのシーソーのもう一端にはバランスを取るために石が多数結びつけられている。漁民達は網の部分を水中に入れ、適当な時間が来るとその網をシーソーの要領で揚げるわけだ。網がとても大きいので、作業は4、5人の男達がまとまって行なっていた。

 その現場に付いたのは丁度お昼前の事だった。網のそばに近づくと、さっそく採れたての魚を並べた小さな市場に行き当たった。名前も知らぬ魚や貝が生臭さもそのままに並べられていたのだが、そこで突如現れたのが「クッキングマン」である。クッキングマンというのはその名の通りクッキングだけをする男で、彼は観光客が市場で魚を買うと自分のレストランに連れて行ってその魚を手数料を取って料理するのである。もう至れり尽くせりというか何と言うか・・・。その市場ではクッキングマンが観光客をしっかりマークしていて、魚選びの指南までしてくれているのだった。インド商法にいささか辟易しながらも、俺達は自分で料理できないという弱みもあってクッキングマンの監視下、大きなエビと剥いてある牡蠣を買う事にした。昼飯には少し少ないのだが、エビが150ルピーもしやがるので仕方なかったのである。

 クッキングマンに付いてゆくと、ほどなく浜辺の掘っ立て小屋に案内された。彼は「塩とガーリックで炒めるけどそれでいいか」と訊いてくる。連日のスパイス責めに飽き飽きだった俺達は二つ返事でそれを承諾。手数料40ルピーだが良いか、という話も言い値でそのまま飲むことに。ほどなくしてそのエビと牡蠣がテーブルに並べられた訳だが・・・。一も二もなく旨い。かつて食したことのないエビの身の締まり具合。ほとばしるエビみそ。牡蠣の方は炒めたらもの凄く小さく硬くなってしまい残念だったのだが、海を見ながらのそんな食事に俺達はこの旅史上最大の贅沢を感じていたのだった。その後は島内のユダヤ教会堂を見学したり、その他もろもろの一般的観光コースをこなしたのである。

 それにしても、南インドには食べ物の思い出しかないのだ。次に訪れたチェンナイ(マドラス)の話も書いてみればきっと上と同じ話になってしまうだろう。インド第4の都市では南インド様式の各種寺院が見られるはずだったのに俺達はひたすら美味探究にうつつを抜かしていたのである。印象としてみればまぁ、他の街よりも冷房のあるビルが多いよね、といった感じであった。やたらと丸まったマラーティー文字やタミル文字を見ながら、北とは違う文化を感じてはいたのだが・・・。

 で、突然ながら舞台は一気に1700キロ北上する。ブッダガヤーやバナーラス辺りをうろついている時に寄っておくべきだった「カジューラーホー」に俺達は向かったのである。そうしなかった理由は明快。「バスでしか行けないし、面倒」ただそれだけの事だったのだ。しかしインドの旅も終盤戦。ここであの有名な「男女交合像」を見ておかなければインドに来た甲斐がない!という妻の強硬な姿勢に押されて延べ37時間の移動を決行する羽目になったのだった。まあいずれにしてもカルカッタをインドの最終地点に決めていたから、いずれは大北上をしなければならなかったんだが・・・。

 と、いうわけで俺達は1700キロでも2人で990ルピーほど(2800円ほど)の切符を握り、チェンナイセントラル駅に立っていた。始発の列車はまず定刻で発車してくれるのが嬉しい。この列車はほとんどインド亜大陸縦断という趣で、33時間かけて一気にデリーまで行くものだった。そのせいか列車の中には「旅だぜ!」とやたら意気込んだおのぼりさんやらスリランカ辺りからやってきた旅行者やらで異様な熱気を帯びている。俺達はまあいつもの調子で乗り込んだのだったが、深夜まで壁をドラム代りにして歌い踊る若者の集団や、廊下を占拠して賭けトランプを始めるオヤジ、はたまた寝台があるのに涼しいからなのか、廊下の地べたに寝転がる男達のせいでなかなか落ち着かない2晩を過ごしたのである。

 しかし27時間の乗車といえど、たかが列車である。1車輌に4つのトイレがあり、飯時には食堂車が注文を取りに来る。飲みものや菓子類、時には謎のおもちゃやら懐中電灯やら、さらには車内禁煙だと言うのにタバコを売りに来る輩まで来て、餓えや渇きとは一切無縁の車内生活が遅れるのだ。もちろん二等寝台は80センチ×170センチほどの空間しかないのだが、チベットやネパールあたりのバス旅に比べればもう雲泥の差なのである。もちろん車窓の景色なぞをじっくり見る余裕はないのだが、こうして寝転がりながら無為に過ごす時間は悪くない。というよりもすっかり慣れてしまったのだ。日本にいる頃にはちょっと埼京線や東上線に乗るにもいちいち売店で雑誌を買い込んでいた俺なのだが、活字を断たれた今となっては自分と対峙するしかないのだ。思い出すのは些細な事ばかりである。来し方行く末、それもなるべくブルーにならない事を考える。それだけで10時間、20時間を過ごせるなどとは信じがたいかもしれないが、こういう状況に追い込まれれば誰でもそうするしかないのである。

 延べ3日目―27時間後―の午前1時に、列車はジャーンシーという駅に到着した。ここからバスに乗り換えなければならないのだが、始バスは朝5時半。インドではメジャーな駅には必ず簡易宿泊所があるのでそこをあてにしていたのだが見事に満室。インド人が築地市場のマグロのように大量に寝転がるホームの片隅で俺達も同じ状況に。インドの列車は完璧に24時間営業なのである。時刻表を見るとどの路線・どの駅でも「午前1時発」「午前3時着」の文字が並ぶ。昼間に付くように出かけたい、という要求はしばしば叶えられないのだ。仕方ない。警察官がウロウロしているので荷物の心配はあまりなく、寝ようとすれば寝ても構わなかったのだが、結局寝付かれずにトランス状態のまま朝5時を迎えたのだった。

 駅を出ると、例のごとく目的地ズバリの客引きが声を掛けてきた。駅を出た瞬間、それも5秒以内である。食い物、宿などでいろいろ苦労も多いのだが、こういう移動の際にはインドって実はものすごく旅行しやすい国かも、と思うのである。そんなわけでそのまま乗車率300%のバスに押し込まれる俺達。300%の内訳は座席に100%、通路に100%、そして屋根に100%ということなのだが・・・。トホホ。まあ外国人だからと気を遣ってくれて座席を空けてもらったのであるが、はみ出さんばかりの乗客が俺の肩を手すり代わりにし、隣に立っていた少年が俺の背中をテーブル代わりにしてビスケットを食い、しかも食べかすをバラ撒きまくってくれたからもう大変。屋根の方が楽かも・・・。などと思わされたのだった。それでもバスはチキンレース状態で走り続け、ひなびたカジューラーホーの街に到着した。

 カジューラーホー。男女交合像のきわどさがインドを訪れた事のない人にも有名だが、その寺以外にはまったく産業がないような村である。寺院があって、その周りには旅行者目当てのホテルや飯屋がわんさかあって、でもその半径200メートルを離れれば全くの田園風景が広がっているような所である。だがしかし、バスを降りても誰も客引きがいないのだ。いつもはF1のピットワークを思わせる素早さで群がってくる男達が全然いないのだ。これには正直困惑した。いつも迷惑だ迷惑だと言っている輩が現れないと逆に淋しい・・・。まるで思春期の淡い恋心に気付いてしまったかのような心持ちである。しばらくどちらの方角に進もうか決めかねていると、おずおずとリクシャマンがやって来たのではあるが、なぜか側にいたポリスマンがそいつを追い払っている。で、今度は何故かポリスマンが声を掛けてきた。「何処へ行きたいんだ?」俺達があるホテルの名前を言ってみると、「それならこのリクシャーがジェントルマンだからこれに乗れ」という。どうやらポリスマンがリクシャマンの行伏を取り締まっているようなのであった。静かなのは有難いが、何だかインドらしさまで骨抜きにされてしまったような違和感も覚えてしまったのである。

 夜行明けなので、とりあえず眠る事にした。宿は300ルピーしたのだが、インド旅行史上初のバスタブに浸り、旅の荷物を解いていると、ここなら5日は居られるのでは?という予感が脳裏をよぎる。食べ物もそうなのであるが、宿の印象がその町の印象を左右してしまうという事は往々にしてある。暑くて発狂寸前だったバナーラスに9日間居たのも極広の150ルピールームの賜物だし、ほとんど見るものもないウダイプルに6日間いたのも気の利いた出窓付きルームの為だった。カジューラーホーあたりも2日あれば全てを見切ってしまうような所なのだが、結局5日間も居てしまったのはこの部屋の影響が大きかったと言えよう。

 しかし、カジューラーホーから離れがたくなってしまった理由はもう1つあった。カジューラーホーには観光以外の産業がないと書いたが、それだけに外国人をあてこんだ商売は発達している。狭い地域に20軒あまりも林立しているホテルは勿論の事、各国料理を売り物にしたレストランが非常に多いのである。少ないパイを奪い合っている関係上、そうしたホテルの看板には日本語から韓国語、英語は当然としてフランス語やヘブライ語までが躍るという事態になっているわけなのだが、その中でも1大派閥となっている日本人への彼らの執着ぶりは凄まじいもので、少しでもツーリスト産業に関わっている者は日本語で挨拶してくるのは当然。「コマネチ!」「だっちゅーの」「車アルヨ、車だん吉」などと微妙に古いギャグを繰り出してくる輩も居るから油断ならない。そんな中で、俺達はガイドブックに載っていたある日本食レストランのオヤジと少しだけだが深い仲になってしまったのであった。

 あまりにも有名な店なので店名は伏せさせて頂くが、50代半ばのそのオヤジ。息子の年齢から俺なぞは勝手に50代だと推測しているのだが見た目には60代と言ってもいいほどの老け込みぶりが見るものを厳粛な気分にさせる。息子は日本語を少し話すのだが、そのオヤジ自身は英語でしか話さないという点が俺達を安心させた。やたらと日本語が堪能な輩は後で必ずビミョーにボッてくるという法則を俺達は旅の中で編み出していたから、その苦み走った顔つきとインド訛りの英語、それでいて手堅く日本食レストランを開いているという点、そして肝心の日本食がウマイという点が俺達を惹きつけたのだった。

 初日の晩の事である。「みそおじや」「親子丼」「みそ汁」の夕食を終えると、オヤジは早速雑談タイムに持ち込んできた。「どこから来た」「俺は草加と大阪に行った事がある」などの当たり障りのない会話、そして日本通インド人の必須アイテム・日本に行った時のアルバム披露の後彼はこう言ったのである。そのアルバムには「デニーズ」で食事をし、「養老の瀧」で酒を飲む彼の姿が・・・。ひとしきり感心してみせると、「明日カレー作るけどチキンでいいか?ウイスキーも用意するよ」・・・。普通の状況では明らかにお断りする状況だったのだが、俺達は(1)目の前で空けられた酒しか飲まない(2)会計は明朗会計でという条件を心の中に決めてその誘いに応じる事にしたのだった。

 さても翌日である。「ウイスキー」とは言いながらも透明な、芋焼酎のような味のするスピリッツを振舞われ、俺達夫婦は少しいい気分になってきていた。周りには彼の子供達と孫、そして3人の日本人客が居た。まあこの状況で狼藉を働かれることもあるまい。1時間ほど飲んだ頃だろうか。オヤジは自分の出世話を言って聞かせたのだった。「20年前、俺はただのチャーイ売りに過ぎなかった。1杯50パイサ。当時の家賃は月100ルピー。それが払えなくて大家からいつも怒られていたよ。親父は独立する時にも200ルピーしかくれなかったし・・・。でも、ある時やって来た日本人旅行者と知りあって仲よくなり、彼に毎日タダでチャーイを奢ってやっていたんだけど、そしたらその日本人が隣町まで行ってセメントや鉄骨を買ってきてくれて、『これで店を開け』と言ってくれたんだ・・・。」

 にわかには信じがたい展開。こうして書いていると、例の開運ペンダントの宣伝文句のようなうそ寒さを感じるのだが、彼はこう続けた。「その店が建つのに何週間かかかったんだけど、その間にも彼はつきっきりで日本食の作り方を教えてくれたんだ。以来俺は楽な暮らしが出来るようになったというわけ。だから俺は日本人には親切にせずには居られないんだ」・・・。うーむ。これを聞いて、酒に酔っていた妻は涙ぐむ始末。俺もまあいい話だと思いながら聞いていたのである。その間にも親父の弟が現れて大阪のインド料理店の名刺を見せながら「俺、ここで働いてたんです」などと言う話や、「大阪の給料は3万円だったんだけど、これって高いの?安いの?」という話を挟んできたりしたのだ。「その給料安いよ!」とは口が裂けても言えず、またしても涙を誘う。

 そうこうしているうちにいい時間になり、さてお勘定という段になると、何とこれがタダ。本当に0ルピーだと言うから信じられない。インド人が洒落で「5ルピー」「10ルピー」と言ってくる事はしょっちゅうだが、結局は定価を支払うのが当然だったからだ。何度もタダでいいのかと聞き直す俺達。しかしオヤジとその弟は「いい、いい」と繰り返すばかり。俺達は上司に誘われたサラリーマンのような格好ですっかりゴチになってしまったのだった。

 と、いうわけですっかり日本風のサービスを受けてしまった俺達は毎夜そこに通い詰める羽目になってしまったのだった。合計2回ほどタダ酒をゴチになり、厨房に入れてもらってカレーの作り方を伝授されたりもした。最後の夜には日本からやって来た数えられないほどの手紙の束を見せられ、「ああ、こりゃぁ1回くらい味噌を送らないとバチが当たるなぁ・・・」と思わされてしまったのだった。実際、オヤジはこうして日本人と仲よくなることにより日本調味料は完全にタダで仕入れているというのだから恐れ入る。

 タダ、と言えばそのオヤジがかつて1度だけ行ったことがあるという日本旅行。この話もスゴイ。彼はこうした日本人達の後援によって1銭も払わずに3ヶ月間旅行したのだと言う。毎日毎日知りあいの家を転々とし、一宿一飯の恩義はインドカレーを作ってやることによって返したのだそうだ。そう。先述のデニーズも養老の瀧も、やたらと日本人と一緒に写っている写真だなぁと思っていたら、彼らがみんな奢っていたと言う訳なのだ。俺はただただ素直に感心してしまった。90日間、1人の家に3泊したとしても30人の後援者が必要だった筈。これをインドから国際電話してきっちりと段取ったオヤジの根性にも恐れ入るし、休みや都合をきっちり合わせてオヤジに付きあった日本人もまた然り。まあ一生に何度も出来ない経験だろうし、俺もどうやらすっかりアテにされているようなので、オヤジがフラリとやって来るのを密かに楽しみにしているのだが・・・。別れの朝には涙さえ流していたオヤジ。「年を取って動けなくなる前に、また日本に行きたい・・・」まるで世界ウルルン滞在記だなぁなどと思いながら、俺達は後ろ髪を引かれる思いでカジューラーホーを後にし、カルカッタに向かったのであった。

 で、俺は今冒頭で述べた部屋でキーを叩いている。これからバングラデシュに向かわねばならないのでビザの取得をしなければならないし、溜まりだしたもろもろの細かい土産がザックの重しになっているから、それも日本に送りたい。もう一切観光もしないで隣国に向かいそうな勢いなのだが、まあどうせ1度カルカッタには戻るつもりなのでそれも良かろう。

 この8月18日をもって満半年を迎えたこの旅。すっかり更新の方はスガワラ殿に任せっきりで心苦しいのであるが、皆さんの生の声を聞けない中でも「きっと読んでくれている」という密かな楽しみが俺を支えています。バングラデシュには2〜3週間滞在し、またインドに戻るつもりです。バングラにいる間はまず日本語のネット環境は期待できないのでしばらく音信不通となりますが、「しりとり」の方、くれぐれも宜しくお願い致します。あんましカキコがないと消されちゃうかもよ〜アヒィ〜。てなわけで。

2003年8月19日 インド ウェストベンガル州 カルカッタ ホテルパラゴンにて



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