恍惚コラム...

第206回―アジア篇 第6回

 バナーラス駅を夕刻に出発した列車は、まもなく翌朝のアーグラー駅に着こうとしていた。外国人専用オフィスで取った切符のせいで周りはみな日本人を含む外国人ばかり。つかの間の日本社会然とした寝台から外を見やるとそこには雨の景色が広がっていた。思えばもう6月も半ばである。日本に梅雨があるように、インドにも雨期がある。「梅雨」などという生易しい名前でない事から分かるように、降る時にはしっかりと降る。そして何事もなかったかのように晴れ間が戻り、油断しているとまたすぐに暗雲が立ちこめる・・・。日本の梅雨を思いながら、俺達は早朝のアーグラー・フォート駅に下り立ったのである。

 駅の前にはお約束通りのリクシャマンの嵐。しかし雨模様のせいか、いつもは熱気でムンムンの奴等も少し物憂げで、積極的に声を掛けてくるのは1人きりだった。それを振り切って、大人しげな兄貴のサイクルリクシャーで例のタージマハルそばの安宿に向かう事にした。道中の景色はひたすら雨。せっかく名勝地にやって来たのだからもう少し何とかして頂きたいと思ったのだが、これが現実である。地元の人々がチャーイとサモーサーなんぞで朝食をとる様子を見ながら、リクシャーはあっけなく宿に着いた。

 タージが良く見える事で有名な宿である。しかしまあ安宿は安宿。いくつかの部屋を見せてもらったのだが、やれ便所が汚いの、ファンのスピード調節が効かないのといいところがない。こんな辛そうな所は前回のナラヤンガート以来である。しかし、最後に見た部屋が何とか許容範囲だったので投宿することにした。きちんとファンは動くし、何より120ルピーである。壁面には何かカビで模様のようなものができており、備え付けの鏡も裏が錆びてしまっているようなていたらくなのだが、夜行列車の疲れと価格の安さから決定してしまったのである。思えばここまで、夜行で着いた朝の宿選びは妥協の連続だった・・・。まあ、ずっとそこに住む訳でもないから旅情の一つと言えばそれまでなのだが。

 早速、雨の中その宿の屋上に上ってみた。猿よけのフェンスが少し邪魔ではあったが、確かにあの写真通りのタージマハルが目の前にあった。常々写真で見ていたタージマハルは、周囲数キロに亘って何もないのだろうと思っていたのだが、それは大きな誤解であった。城壁(?)ギリギリまで民家や商店が建ち並ぶ普通の街のど真ん中にそれはあるのである。門の直前まで普通の店が建ち並び、牛やら野犬やらがウロウロしているのである。きちんと入場料を払って門の中に入ればあの写真通りのタージが見られるのだが、その雑踏の中の屋上から見るタージはいい意味でインドらしさを感じさせてくれた。インド名物「リムカ」(ファンタレモンのようなジュース)を飲みながら、俺達はあっけなく手に入ったこの景色に親しみを覚えていた。

 翌朝である。まあかねてよりガイドブックで見知ってはいたのだが、タージマハルの入場料の高さを如何するべきかという問題が俺達夫婦の間で持ち上がった。何しろ世界遺産であり世界最大の総大理石建築である。何と外国人の方は入場料750ルピー!なのである。約2100円なのである。屋上から見られるのにこの大金を払うべきかどうかで俺達は悩んだ。しかも地元のインド人は20ルピー、56円で入場しているという腹立たしさ。せっかく目の前まで来ているのに・・・という思いは当然のことである。だがこの値段は一体どういう事なのか・・・!自分らが今120ルピーの部屋に泊まっているというのに、どうにも納得がいかない。で、結果、俺達はタージマハルのすぐ裏に広がっているという河原に目をつけ、そこからタダで裏タージマハルを拝もうという作戦に出たのだった。

 宿の目の前の道を右に曲がり、突き当たった広い通りをひたすら、タージの外壁を見ながら裏の方へ進んでゆく。段々とうら淋しい道に入ってゆき、「大丈夫か?」と思ったその時、何やら現地語で書いてある門にぶつかる。だがその門には「entrance free」と書いてあったので安心して進む事にする。恐らく勝手に入場料を取ろうとするインド商人対策なのだろう。そこまで来ればもう河原は目の前である。山羊が放牧されている河原に下り立ってみると・・・見える。裏タージマハルが。下辺を塀で囲われて見えないほかは、まったく遜色なく目の前でタージを拝めたのであった。あの建物、完全なシンメトリーで4面が全く同じデザインだから全然問題なし。少し淋しさも感じたが、観光客の全く居ない所から見るタージマハルはなかなか楽しいものだった。

 それにしてもここアーグラーの街にはリクシャーが沢山居るのだが、たちの悪いのが多くて困ったのである。またリクシャーの話か、と思われるかも知れないが、インドの旅=リクシャーとの闘いなのである。後学のために、是非読み進めて頂きたいのである。それはアーグラー3日目、駅まで行くのが面倒だった俺達は観光案内所で列車のチケットを取れないものかと行ってみた時の事である。侮る勿れインドの鉄道。殆どの路線でオンライン予約が可能になっていて、即座に指定席が予約出来、その場で切符を受け取る事が出来るのだ。俺達はブッダ・ガヤーのひなびた観光案内所でチケットを取った事があったから、それに期待して行く事にしたのである。まあしかし晴れた日の3キロ余りの道のりである。たちまち汗が噴き出し、リクシャマンはそれをあてこんで俺達に迫ってくる。往路は何とか振り切って―それでも物陰に隠れてやり過ごしたり、どこかの店に入るふりをしたりとかなりの苦戦を強いられたのだが―無事目的地に着く事が出来た。しかしそこのオヤジは言ったのである。「ここでは切符の予約は出来ない。でもデリー行きなら当日でも買える」と・・・。一体俺達の苦労は何だったのかと思ったのだが、事前に確認して行かなかった俺達も俺達だ。仕方ない、ということで帰路に着いたのだが、問題はそこからである。案内所を出て数百メートル行ったところにリクシャーだまりが出来ていたのである。なるべく目を合わせないように通り過ぎようとする俺達。しかしこれで生計を立てている彼らが我々を見逃すはずはなかった。1台のサイクルリクシャーが近付いてきて盛んに声を掛ける。「10ルピー!」こういう時は無視に限るので、俺達は意地になって楽しげに、速足で歩いた。リクシャマンの言い値は一気に半額になる。「5ルピー!」ここまで1キロ近くあっただろうか。一切無視を決め込む俺達に熱い期待を寄せる男は何か切なげで、情に訴えるものがあるにはあったのだが、ここで折れてはバックパッカーの名がすたる。それでもひたすら歩き、偶然ジュース屋があったのでそこで一服。さすがに店の方には入ってこないので「巻いたか」と思ったのだがまだまだ甘い。店を出ると当然のようにヤツは待っていた。それからさらに1キロ。お前、こんな客に精魂傾けるんだったら他の客を探せ、と言いたいのだがそれもひたすら飲み込んで歩き続けた。約3キロ。遂にリクシャマンは「フリー!フリー!」何とタダだと言い出したのである。フリーなはずはない。俺達もヤツも炎天下でもうヘトヘトなのである。ここで甘い顔をして乗り込んだら、提携している土産物屋に連れ込まれて大変な出費を迫られるに決まっているのだ。さてもヤツはフリーを連呼しながらいくつもの交差点を越え、時には水屋で水を買って飲んでから追い付いてきたりしたのだが、3キロ半ほどの所で巻くことに成功したのだった。ああご苦労さん。ここまでしつこいリクシャーは今まで見た事がなかったのだった。やっぱりしつこいリクシャーには無視。これに限る。

 裏タージと熱いリクシャーの思い出を残して、俺達は当日券で行けるデリーに向かう事にした。やけに安い切符。正午発。この安さには裏があったのだが、それはまあ後の話。アーグラー・カント駅にはなぜかこおろぎの大群がいて、それこそ踏みつけずには歩けないほど。知らぬ間に荷物に何匹か貼り付いていて、それを払いのけている間に正午を迎えた。偶然にも、宿のレストランで知りあったオランダ人青年が同じ列車でデリーに向かうというので一緒に列車に乗る事にする。勿論向こうの一方的な英語を解したふりをしながらである。俺達は皆どの車両に乗るべきか分からなかったのだが、その青年が適当に指さした車両に乗り込む事にした。もう出発も近い。

 しかし、その2等寝台車は超満員。オランダ青年は軽い荷物も相まってズンズン進み、適当な寝台に横たわったのだが、こちらは2人。荷物も夜逃げ状態のフル装備だったので狭い通路には入れず、仕方がないので列車の連結部でじっとしているしかなかったのである。ほどなくして検札がやって来た。が、彼は俺達の切符を一瞥してこう行ったのである。「ここは指定席の車輌だから追加で2百何ルピー払え」と・・・。列車の連結部に座っている俺達に対して何たる事を。乗った車輌を間違えたのは悪かったとは思うのだが、人情も何もあったものではない。幸いにもそばにいたインド人がなだめてくれて、次の停車駅で2等自由席に乗り換える、ということで幕となったのだが、こんな列車に2百何ルピーも追加で払わされそうになったのにはどうも納得がいかないのであった。

 で、駅名も知らぬ小さな駅で俺達は荷物を抱えて後部の車両を目指したのである。しかし小さな駅なので停車時間も短く、しかも何番の車輌に乗るべきかという指示もなかったので俺達は当惑した。で、とりあえず後ろの方にある、いかにも安そうな激混みの車輌に再び乗り込んだのだった。しかしこれもまた指定席だったようで、しばらくするとまた同じ検札がやってきて「何だ」という顔をされてしまったのだった。でももう諦めたようでお咎めはなし。何しろ俺達は車輌のどん詰まり、窓もない便所の目の前でうずくまっていたのだから・・・。
 かくして列車は午後4時頃、ニューデリーの駅に到着した。3ヶ月ぶりに見るエスカレーター、4ヶ月ぶりに見る高層ビルに俺達は歓喜した。エスカレーターの有難みなぞ普段暮らしていては全く分からないが、こうして久しぶりに乗ってみると何て素晴らしい乗り物なのかと思う。文明の利器を有難く思えなくなる自分が空恐ろしいというか何というか。

 だが、インドの大首都であらせられるデリーも、駅から一歩踏み出せばムキダシのインド空間が広がっていたのである。牛こそ田舎より少ないものの、路上はゴミだらけ、空気は古いバスやオートリクシャーのお陰で最悪(CNGと表示された天然ガス仕様のリクシャーもすごく多いのだが)。もうこういうインド空間にはいい加減驚かなくなり、リクシャーがいないと何か淋しささえ覚えるようになった昨今なのだが、インドが初めてで、ここが首都だと期待してやって来た人にとってはちょっと酷かも知れない。俺達は早速そのニューデリー駅前のメインバザールに投宿し、そのバザールを歩き回る事にした。

 バザール、という言葉にはなんだか西欧的なオシャレさが含まれているような気がするものだが、ここインドでは市場はみんなバザールである。ヒンディー語の看板の下には英語で「メイン・バザール」とか「パリカ・バザール」などと書かれているのだ。でもとりあえず「商店街」くらいの意味で理解するのがよろしかろう。ここデリーのメインバザールはもう雑多なインドのエネルギーに満ちていた。靴屋やら電気屋やら菓子屋やら。その間を縫って屋台で雑貨やらポップコーンやら果物やらを売る商人やら。そこらにある牛糞も相まって、真っすぐ歩くことは到底叶わない。勿論駅前という立地もあって安宿も掃いて捨てるほどあり、旅行客相手の両替屋やら各国料理屋にも事欠かないところだ。俺達はとりあえず1軒の韓国料理屋に入り、キムチ炒飯とビールを注文した。ネパールからインドに入った時に感じたのだが、何故かインドには韓国人旅行者が多い。聞く所によるといま韓国ではインド旅行がブームなんだそうで、言われてみれば見る東洋人東洋人、みな韓国顔をしている。手にはハングルのガイドブックを持っているからすぐに見分けられるのだ。また逆に俺達が韓国人と間違われることもしょっちゅうである。大概が的を外さず「コンニチハ」と言ってくるインド商人が殆どなのだが、たまに「アニヨハセヨ」と言われると何だか訂正していいんだか悪いんだか複雑な気分になる。まあ、さてもキムチ炒飯である。余り辛くない、むしろ酸っぱめなキムチはお世辞にもウマイとは言えない代物だったが、インドで韓国料理、しかもビール付である。文句のつけようがなかった。あまり知られていないが、インドというのはあんまり大っぴらに酒を飲めない国なのである。酒屋は決して表通りには店を出さないし、飲食店のメニューにも酒はまず載っていない。だがしかし聞いてみると店の奥から密かに出してくる、そういうカンジなのである。また無事ビールをゲットしても、「ビンはテーブルの下に置いてくれ」とか「今日は禁酒日だから一気に全部コップに注いでくれ(勿論そのコップは不透明な金属製だ)」などと言われてしまうという、酒飲みにとっては大変居心地の悪い国なのだ。と、いうわけで俺は数日振りのビールを堪能したのだった。

 デリーには始めから1週間いるつもりだった。結局観光地と呼べる所には1つも行かなかったのだが、メインバザールで各国料理を味わい、市街地では冷房の効いた店でも冷やかしてそろそろインドの毒気が回ってきた身体をリフレッシュしようという魂胆だったのだ。まあたしかに快適といえば快適だった。狭いながらもテレビとホットシャワー付きの部屋。すべて徒歩圏にある各国料理店。インドでは貴重な、甘くないコーヒーを飲める喫茶店など・・・。だがしかし、自らインドを遠ざけるような姿勢はインドの前には到底無力だったのだ。ふと気付けば牛糞を踏みそうになり、物乞いに袖を引かれたりするインドの真実。高層ビルと高級車と、そうしたいわゆるプリミティヴなものが渾然一体となっているデリーの街は、やはり「インドの」首都だったのである。でもまあ、何も見なくても街全体がインドを教えに来てくれるような街だった。俺達は無為に、しかし毎日何かを見ながらデリーでの1週間を過ごしたのだった。

 その後、俺達はジャイプルという街に向かった。段々南下してゆくルートに入ったのだ。もともと世界史や世界地理に疎い俺はその街に行く直前になってその街の御託を知ることになるのだが、ここはサワーイ・ジャイ・スィンというマハーラージャが治めていたという街なのだそうで、当時の宮殿やら砦やらが見られるのである。もっとも俺にしてみれば旅をすること自体が目的そのものだから、そういう歴史関係は余禄に過ぎないんである。歴史好きな方やインド好きな方には大変申し訳ないのだが・・・。

 さて、ジャイプルである。朝9時頃の列車に乗って5時間余り。そこには何故か日本の9月半ばを思わせるような爽やかな風が吹いていた。湿度が妙に低い。それもそのはずで、このジャイプルを擁するラージャスターン州はパキスタンに至るタール砂漠がある州。その気になればここからジャイサルメールという砂漠真っただ中の街へ行き、ラクダに乗ったりするのもアリだというのだから驚きだ。また、ラクダに荷台をつけて牽かせる光景もこの街では至る所で目にする事が出来る。それにしても、夜になればこおろぎの鳴き声なんかも聞こえてくるし、すっかり日本の秋に思いを馳せてしまう所だった。

 ジャイプルには3日。通り一遍の名所巡りをこなす。「風の宮殿」「シティパレス」「博物館」・・・マハーラージャの着ていた衣類や、ガンジス河の水を入れてイギリスまで運ばせたという世界最大の銀製の壺に普通の観光客的感慨を受ける。が、しかし、この街では何故か妻が観光に燃えてしまい、暫くダラダラ暮らしていた俺はすっかり参ってしまったのだった。1日7時間を3日間歩きっぱなしの立ちっぱなしである。いくら遊び暮らしている身とはいえ、これでは身体にいいはずがない。

 案の定、次の街ウダイプルに着く頃にはすっかり体調を崩していた俺。周りが暑いので体温が上がっている事には気付かなかったのだが、身体が妙に重い。ウダイプルはやたらと坂の多い街なのだが、少しの移動で俺はすっかり参ってしまっていた。まあ宿もきれいで安いし、ここで暫く養生を・・・と決め込んだ2日目。本当に何もせずにブラブラしていただけなのに急に38度5分の熱に見舞われてしまったのだ。インド製体温計の説明書には「平熱は37度です・・・」などと書かれてあったので今までの37度台の発熱?をナメていたのだが、さすがにここまで熱が出ると辛い。日本にいても滅多にここまでの熱は出ないのですっかり慌ててしまった。何しろインドなのである。マラリアやデング熱、そして肝炎やら何やらの難しそうな病気がフツーに存在しているところなのである。その前日に変調を感じ、「インドの病気にはインドの薬で」と買っておいた薬も全然効かない。参った。俺は厄介そうなので渋っていたのだが、妻は医者にかかった方がいいと言う。俺もまあここまで来ると思考能力が鈍り始めていたので、まあ後学のためにも行ってみるか、というわけで、海外で医者初体験と相成ったのであった。

 一応、海外傷害保険に入っているので、妻がまずそこの東京サービスセンターに電話してどこの医者がいいか、と訊いてきてくれた。するとしばらくして宿に電話がかかって来、街で一番有名だと言う病院を紹介されたのだった。リクシャーを捕まえて早速向かう。夜8時半を過ぎていたというのに、その病院とその周りは全ての店が普通に営業していた。インドの夜は遅いのである。

 勝手も分からぬまま、病院の人は外国人だというのに平然と診察室に通してくれた。まあ診察室とは言っても学校の教室の片隅に机と酸素ボンベやらを並べたような所だった。医者は机の前に坐っていたのだが、長電話をなかなか止めようとしない。まあ俺も、今すぐ死ぬとかそんな状態ではないからとその偉そうな医者の電話でのやりとりを観察していたのだが、その間に車イスに乗せられた青年が担ぎ込まれてきた。どこがどう悪いのかは一見では分からなかったのだが、彼は電話をやめない医者の前で嘔吐し出したりととても苦しそうな感じだった。さすがに医者もこれはまずいと感じたのか、だがしかし電話は切らずにその青年の付添人から名前と症状を訊き出し、患者には一切手を触れずに点滴か何かの処方箋を切っていた。その青年はどこかに運ばれて行ったのだが、そう広くない病院の事、その後どこでどんな処置を受けたかは全く不知である。

 で、俺の番がやってきた。先程の急患とは打って変わって、今度は日本の医者と変わらない聴診やら喉の視診がなされた。こちらが外国人だからと気を遣っているのだろうか。俺はこれまでの症状を説明し、どんな難しい病気も見逃されないように細心の注意を払ったのだった。が、しかし医者殿曰く、「下痢さえなければ問題ない」ということで正確な診断名もないまま薬の処方せんを出すのみだった。まあ結局今はこうして普通に文章を書いているので一件落着というわけなのだが、もし本当にヤバい病気だったらどうなるのだろうかと不安を抱かずにはおられなかった。広いインド、なかなか日本語が通じる医者もいないようだし・・・。

 薬は5種類。鎮痛消炎剤とせき止め、それに抗生物質やら何やらが300円ほど。それに初診料が300円余りと総計600円余りの出費であった。先述の保険を使おうかとも考えたのだが、まあ600円である。これで入院でもしていたらかなりの出費になるのだろうから、保険の出番はもうすこしヤバイ時に・・・という事にしたのである。それにしても日本語で、しかも無料で病院を紹介してくれる保険会社の頼もしさに救われた経験であった。

 ウダイプルにはそういう事もあって6日も滞在してしまった。ウダイ・スィンというマハーラージャの宮殿がある以外にはさして見どころのない小さな街なのだったが、それだけに住民が観光客ズレしておらず、とても居心地が良かったという事情もある。そういう街では買い物もボラれずにスムーズに出来るし、移動にも気楽にリクシャーを使える。宿も「こんな広い部屋に!」という所に1泊150ルピーで泊まる事が出来たのだ。清潔なダブルベッドに出窓。大きく作られたその出窓には布団と枕が置いてあり、思いきり窓辺でダラダラ出来るという素晴らしい部屋だったのだ。余りメジャーではない土地だが、時間のある方には是非訪れてみて頂きたいところだ。宿の名は、某ダ・ヴィンチの女性の肖像画の名前。行けばすぐ分かります。

 そんな体験のあと、俺達はまだまだ移動を続けた。今度の街はアーメダバード。グジャラート州というインド唯一の完全禁酒州の都市だ。ここには本当にメジャーな見どころはないのだが、16世紀に作られたという豪華な階段井戸が見られるのである。ウダイプルからの列車が朝4時半に着いてしまい、1時間ほど時間をつぶして駅前の宿に行って見たのだが残っているのは風呂なし、窓なしの地獄ルーム。まだまだ早朝で移動するのは辛かったのだがこれでは余りにも・・・ということでそこから出ようとすると何故だか狙っていたかのように他の宿を紹介しようとするリクシャマンあり。まあ普段ならこうした輩の言うことは聞かない事にしているのだが、まだ薄暗い時間帯。眠さも極限状態だ。ここはひとつこのオヤジに賭けてみようという事になって、俺達はそのリクシャーに乗った。

 1件目、ボツ。2件目、高すぎ。どんどん時間が過ぎてゆき、このオヤジはなぜちょうどいい宿を知らんのだ!と思い始めた3件目。いかにも門構えはアヤシイ雑居ビルなのだが内装はとても綺麗なホテルに通された。部屋は4畳半ほどの広さしかなかったのだが、まだ新しいらしくタイル張りの床も綺麗だし、便器も新品同様。勿論テレビ・ファン付きな上に電話機まで付いている。すぐさまそこに投宿することにして、リクシャマンと別れた。彼は最初に「自分の紹介するホテルならば運賃無料」と言っていて、それが3軒も回らせたのにもかかわらず守られたのにも驚きだった。インドはボる、ボると言われているのだが、どうもインド西部に入ってくるとそんなこともないらしい。

 チェックインを済ますと、妻は長旅の疲れからすぐに眠ってしまった。俺もすぐに眠れるか・・・と思ったのだが、枕元の電話機が気になって辛抱たまらぬ。思えば自分のパソコンでダイヤルアップ接続をしたのは中国・西安が最後だったのだ。意を決して起き上がり、まずは市内通話が出来るかどうか確認。それがわかると早速Excel形式のローミング電話帳を開いてアーメダバードのアクセスポイントを探す。主要都市なので簡単に見つかった。大振りな壁面ジャックを外し、そのリード線を引き出してパソコンに繋いだ。久々に聞くモデムの音が新鮮だ。果たして俺はほぼ4ヶ月振りにダイヤルアップ接続に成功したのである。日本に居れば常時接続で超快適なのに・・・と思いながらも、やはり自分のパソコンが直接ネットに繋がるというのは物凄い快感だ。と同時に、ネットに繋がっていなければ本来の力を発揮できない昨今のパソコンに恨み言の一つも言いたくなる。OSやアプリケーションのアップデートはネット経由だし、間違ってブラウザを開いたりしようものなら「指定されたサーバーが見つかりません」・・・。何だかオフラインでパソコンを使うのが間違った事のような気がしてしまうのだ。まあそれはさておき、久々にメールなぞをチェックし、しばらく至福の時を過ごしていたのだが・・・。

 突然部屋のブザーが鳴った。「あんた電話してるのか?」と言う従業員。つまり、長い間電話線を占拠するなということだった。長い間、といっても20分少々のことである。詳しい事情は分からないが、まあ他の電話が入ってこなくなるからやめてくれという事なのだろう。ショボい・・・。こういう宿なら通信事情は少しはマシかと思っていたのだがやはり難しいのである。まあとりあえず目的は果たせたのでよしということにしたのだった。

 この時点でインド暮らしも40日ほどになっていた。始めは喜んで食べていたインド料理にも段々食傷気味になっていたのである。インド料理と言って、皆様はどのようなものを想像なさるだろうか?カレー、タンドリーチキン・・・。大方、想像出来るのはそのくらいだろう。で、インドにはそれらがずばりある。で、それ以外の選択肢が殆どないのだ。他の選択肢とはすなわち「チョウミン(焼きそば)」「サモーサー(じゃがいもなどの具が入った揚げ菓子、パコーラーなどと呼ばれるのも形は違うが似たものである)」「フライドライス(炒飯)」くらいで、どうもパッとしない。その理由を考えて見るに、どれをどう選んでも油を使わない料理がない、という原因にぶちあたるのである。カレーにもかなりの油が浮いているし、フライドライスにしてみても食べ終わってみれば皿の底にギトギトの油が残っている。これが正直辛くなってきていたのだ。デリーで十分リフレッシュしたはずなのに、やっぱりお米の国の人だもの。ジャポニカ米でお茶漬けさらさら、なんて世界に憧れるのである。

 俺達は観光もそっちのけで、爽やかな食べ物を目指して歩き出した。脳裏には最近話題の讃岐うどんやら回転寿司の光景を思い浮かべながら。しかし行けども行けどもここはカレーワールド。カレー番長が番を張るマサラ地獄の3丁目なのである。で、見つけたのがファーストフードっぽい1軒の店。店先にはハンバーガーのようなものが陳列されており、ここでなら何とか俺達の渇きを癒せるかもしれないと思い早速そこに入ってみることにしたのである。インド独特の料金先払い・レシートで商品と交換システムに戸惑いながらも俺達は「ワダパオ(じゃがいも揚げバーガー?)」「ホットドッグ」を注文した。だが、その時俺は店内の表示に気がついてしまったのだ。「We are pure vegitarian」ん?ワダパオはともかく、ホットドッグがピュアベジタリアンってどんなのよ?果たして、出て来たホットドッグは肉をじゃがいもを代用した「コロッケパン」そのものなのであった・・・。

 しかし、である。3日目の夜に俺達はある屋台と出会い、少しは癒されることが出来たのであった。それは「チャイニーズフライドライス」。即ち中華炒飯なのであるが、怖そうなムスリムのオヤジが一心に中華鍋を回す様に俺達はしびれた。インド人って中国人嫌いちゃうんかと思いながらも、俺達はすぐさまそこの客となった。かなり辛口ではあったが、インド的ではないスパイス遣い。コリアンダーの味がタイ料理すら連想させるその味はインドの中にあってかなり中国していた。30ルピーでこれでもかと盛りつけてくれたオヤジはずっと怖い顔のままだったが、何故か俺の名前を聞いて微笑んでいた。インド人は何故か再び逢う関係でもないのに一方的に名前を聞きたがるのは何故なのだろう?

 そして俺達はインド随一の大都市・ムンバイーに向かう事にした。これまたインドに来るまで知らなかったのだが、インドで一番経済的に発展しているのはデリーではなくムンバイーの方なのだそうだ。恐るべき東インド会社。実際ムンバイーにはデリーよりもイギリス的雰囲気があって、真っ赤な2階建てバスが欧風の教会の前を走り抜ける光景を見ていると何処の国にいるのか一瞬見失いそうになる街なのだった。

 インドで最も高い物価を誇るムンバイー。メシは3倍、宿も3倍掛けである。まあメシの方は本当に純正コンチネンタル・純正中華が食べられて万万歳だったのだが、ここらの宿は本当に酷い。今まで高くても250ルピーあればまともな部屋に泊まる事が出来ていたのだが、こちらでは300ルピー出しても窓なし風呂なしの独房しかゲットできないのだ。せっかくアラビア海を見ながらリゾート気分に浸ろうと思っていたのにこれではあんまりである。何人もの客引きに追いかけられながら俺達は少しずつ目標金額を上げながら宿を探した。この部屋、350ルピー。ボツ。この部屋、400ルピー。ボツ。何しろインド最高級のタージマハルホテルのすぐそばである。そう簡単にいい部屋が見つかってたまるものか。しかし宿代に1日1000円以上使うのはどうしても避けねばならぬ。で、4件目。450ルピーの小窓付き、風呂付きの部屋で何とか妥協することにした。どうせ3日しかいないのだ・・・。と思いながらテレビを点けてみると、何とNHKのCSが映るではないか!日本のテレビはネパールの日本料理屋で流れていたのをちらっと見て以来、宿の部屋できちんと見たのは中国・蘇州の宿以来の事だった。こんなボロい部屋にも一つくらいは取り柄があるものである。どう見ても裏面にはカビがぎっしりに違いないマットレスに寝転がりながら見る「おしん」「こころ」「お江戸でござる」はまた格別だった。始めの頃は日本語のニュースがまくしたててくるのにものすごい違和感を覚えたのだが、だんだん見ているうちにここがインドだと言うことを忘れそうになってしまうからテレビって怖い。日本に帰ったらさぞ俺も浦島太郎化してしまうことだろうが、7月18日の土屋知事辞職、そして謎の小学生4人監禁事件、沖縄の少年リンチ事件はここでしっかりと記憶に刻み込まれたのだった。それにしても日本を出てから辛気臭い事件ばかり起こっているようで気掛かりなんである。通り魔なんかも流行ったみたいだし・・・。

 ムンバイーは先述したように、イギリス風の町並みと経済発展が相まって金さえ出せばいくらでも快適な生活が出来る街なのだったが、いかんせん貧乏旅行者にはケツの座りが悪すぎた。かび臭い部屋とNHKテレビの思い出しか残らないムンバイー。ここは金持ち旅行のための街なのだと心底思った。

 で、これを書いているのがアウランガーバードという街。ムンバイーから列車で7時間ほどのところにあるデカン高原の街だ。海沿いだったムンバイーに比べて大分涼しく、雨も殺人的ではない。ここはあの有名なエローラ・アジャンター石窟郡観光の起点となる街。昨日早速エローラの方に行ってきたのだが、まさに教科書通りのカイラーサナータ寺院が目の前にあった。こういうメジャーな世界遺産を見るとどうしても「世界不思議発見」なんてテレビ番組が脳裏をよぎってしまうものだが、あれに出てくるミステリーハンターのはしゃぎ振りもこれを見ればまあ納得も出来ようというものである。本当に継ぎ目のない数々の石窟群。100年に亘って彫られ続けたというそのカイラーサナータ寺院は流石と言う他はない。ここでも外国人料金で、外人は250ルピー、インド人は20ルピーという目に逢ったのだが・・・。

 まあさてもインドは広い。もう50日以上もいるのにまだ半分も回れていない感じだ。ゴアに行こう、チェンナイに行こう、おっとカジューラーホーを見忘れた・・・というわけであと最低1月は居なければならないような雲行きなのである。そしてその後はバングラデシュをつまみ食いしてミャンマーかタイ、ビザや航空券の都合のいい方に行こうと思っている。ここで気掛かりなのはミャンマーだ。なんと、ミャンマーは国としてインターネット接続を禁じているそうではないか・・・。まあインドにいるうちにもう一度更新を迎えそうな感じなので、対策はその時考えよう。対策と言っても、掲示板にきちんと書き込みをして頂いて潰れるのを防いで頂くという他ないのだが・・・。

2003年7月21日 インド マハーラシュートラ州 アウランガーバード シュリーマヤホテルにて



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