高度が下がるとかくも暑くなるものか。ネパール・カトマンドゥ盆地をバスで離れ、ナラヤンガートという街に着いた瞬間からこれまでとは異次元の暑さに襲われた。カトマンドゥは高度1200メートル余り。日本で言えばちょうどいい避暑地になるくらいのカンジだろう。で、ナラヤンガート。ここはネパールのほぼ中心に位置する都市なのだが、ここは地図で見てもモログリーン。正確な標高は不知だが、かなり低まっている事は明らかだった。カトマンドゥよりも顔の濃ゆい人々が行き交う街。そういえば、山が見えない景色を見るのは何ヶ月ぶりだろう。このままインドに突入して行くんだなと思うと感動的ではあったのだが、長旅で更に重くなったザックを背負うにはハード過ぎた。気温はおそらく40度は優にあったはずだ。
さして見どころの無いこの街にやって来たのは他でもない、インドに向かう道中のほんの休憩のつもりだったからである。街の中心からえらく離れた所でバスから降ろされたのが午後2時過ぎの事だった。「後はリクシャーで行ってくれ」とバスの車掌は事も無げに言い放ったものだが、今までに見てきた都市の顔とは随分違うネパールの素顔に俺達は少し戸惑った。そこら中を闊歩するヤギと、それを無為そうに見守る老人。商店の看板には英語の表記が全く無く、都会では盛んに声を掛けてくるリクシャマンも何故か俺達を遠巻きに見守っているだけだった。どちらに歩けば宿にあたるのだろう、という疑問は当然湧いてきたものの、俺達はその暑さの前に座り込み、そこらのヤギと戯れるしかなかったのである。ヤギの瞳孔は強い日光によって細まり、何だか情けない表情に見えた。
しばらくして、俺達は北に向かって歩き出す事にした。ガイドブックにも正確な地図がなかったのだが、まあ市街地はこちらだろうとあたりを付けて進むしかなかったのである。流れ出る汗。これまでのネパール暮らしは一ヶ月半以上にのぼっていたのだが、口髭を伝い、顎髭を伝って地面に流れる汗というのは初めてだ。手にしていたペットボトルの水はすでに水とは呼びたくないほどの温度になっていて、喉の渇きを癒せるシロモノではなくなっている。10分歩き、3分休む。その周期がどんどん短くなって行き、結局徒歩では無理だと判断した俺達は何でも良いから乗り合いの乗り物が来るのを待つ事にしたのだった。
売り物のヤギと同乗したバスで市街地に着いたのはそれから30分程経った頃だったろうか。しかしまだまだ宿エリアには遠かったようで、またしても車掌が「リクシャーに乗れ」と言い出した。なるべくならリクシャーは使わずに済ませたいのである。外国人と見れば法外な値段をせびってくるし、最初の言い値で乗って、到着してみれば「それは1人分の代金だ。倍よこせ」と言ってくるのが彼らリキシャマンの常套手段だから、そんな忌まわしい乗り物には限界まで乗らないようにしているのだ。が、しかし。バスを降りた瞬間から物欲しそうなリキシャマン3人の視線が俺達に注がれている。奴等は値段の話は抜きに、ひたすら俺達の荷物を自分のリクシャーに載せようと掴んでくる。「ノー」と世界の共通語で断り、俺達は疲れもあってどのリクシャーにしようかと品定めに入ったのだ。まあ品定めといっても定石などはない。一番素直っぽいヤツのリクシャーに乗るだけである。で、俺達は一番若そうなアニキのリクシャーの人となった。
こういう時に、「どこの宿に行きたいか」という話が必ず出るものだが、これに答えるとロクな事はない。絶対に彼らは自分にお小遣いをくれる宿に連れて行くに決まっているのだから、乗る側は他のランドマークを指定して乗るべきなのだ。しかし、彼は予想通り小奇麗な宿の前でリクシャーを停めた。偉そうな警備員が門番をしているそこはいかにも高そうな雰囲気。「ノー」と言うと、今度は少し安めの宿に案内してくれた。もうこのあたりまで来れば宿ゾーンなので、もしここが気に入らなかったとしてもヤツに用はない。が、予想通り、笑顔でお別れしたいリキシャマンは当初の言い値・50ルピーの倍を請求してきやがったんである。「この暑い中宿を2件はしごしたから」というのがヤツの言い分。はぁ・・・?一筋縄ではゆかないと覚悟はしていたが、このお約束通りの展開には言葉も出ない。暑さは人を狂わせる。俺は一刻も早く宿のロビーに入りたかったのでサクッと100ルピーを払い、やっと日陰に入る事が出来たのだ。
名前ももう忘れてしまったその宿はそこそこの佇まいで、値段も3〜400ルピーだかとちょっとお高め。しかしいきなりチェックインするのは禁じ手である。こうした「3ケタ台」の宿では便所が流れないのは日常茶飯事だし、電灯がたくさん付いていても実際に使えるとは限らないんである。そこで俺は荷物の見張りをし、妻に部屋の偵察を頼んだのだった。で、結果―ボツ。部屋は大きくて綺麗なのだが便所を流すと溢れてくるのだという。これではポカラ事件(前回コラム参照)の再来である。俺達は親切なフロントのオジサンに心の中で詫びながら再び炎天下に出て行かねばならなかったのだ。
宿ゾーンだけに、そこには裏路地沿いに3、4軒の宿が建ち並んでいた。いかにもアヤシゲな所は避け、ある1軒の宿に再挑戦。ここでも妻に偵察を頼むと―ボツ。何が気に喰わないのかは忘れてしまったのだが、恐らく便所関連の問題だったような気がする。ことほど左様にこの国で美麗トイレに出会うのは難しいのだ。うーん。
それにしても荷物を持ったままの宿探しは骨身に応える。つい先程買ったペットボトルの水はもう底をついていた。「どこかで茶でもして気分を変えよう」と妻が言うので、仕方なく手近にあった食堂で休憩。この国の食堂はフラっと入って飲み物だけ頼んでも変な顔をされないのが嬉しい。多くの地元民もそのような使い方をしているし、大体それに代わる喫茶店という概念がないから当然といえば当然なのである。コーラで一服。「ちょい高そうだけど本に載ってるこの宿に行っとく?」などと話しながらその店を出た。が、振り返るとその店は「宿兼レストラン」だったのだ。もう移動にもほとほと疲れていたし、通り沿いのその建物はなかなか立派そうに見えた。俺達はすぐさまその店に戻った訳なのだが、そこの店員は何も言わずとも事情を察していたようで、快く部屋へ案内してくれた。偵察の妻の評価も中々のものだった。
しかし、その部屋はまあ確かに便所はこれまでにない綺麗さだったのだけれど、致命的欠陥が1つあった―窓がないんである。まあ確かに天井近くには格子の入った小窓があり、廊下に面したドアの脇にも窓はあったのだけれど、野外に面している窓というものが一つもなかったのである。これには参った。いくら強い日差しから守るためといわれても、これでは独房そのもの。で、窓が小さいから風の流れも良くない。当然冷房なんてゴージャスなものはないから扇風機で涼をとるわけだが、これがもうね、もともと暖かい空気を攪拌しているだけだから何の役にも立たない。・・・俺はこれから始まるインド行きに一抹の不安を抱くしかなかった。
なぜかそんな宿に2日間も投宿してしまった俺達は、一日に5度のシャワー(勿論真水シャワーである)及び扇風機全開のまま就寝という2つの技を駆使してしのぐ羽目になってしまったのだった。日本では扇風機をつけたまま寝たら風邪をひくだとか、死ぬだとか(俺は実際子供の頃そう教えられたんだが・・・)言われているが、この暑さの前にそんな御託は一切無用なのである。俺も最初は律義に扇風機を止めて寝ようと試みたのだが、とてもそんな事は出来やしない。ひたすら流れ出る汗。「汗ばむ」などという生易しいものではなく、本当に玉のような汗が全身から分泌され、ひとたまりもないのである。そこに扇風機すらなかったら、俺達はブチキレて廊下で寝るしかなかっただろうと思える程の暑さだったんである。それにしても、見どころの無い街に逗留するとこんな思い出しか残らないものなのかしら・・・。
さて、何とかその灼熱地獄を乗り越えた俺達は、一路ネパール・インド国境の街であるビールガンジに向かう事にしたのである。朝8時頃になると、通りの至る所でバスが客引きをしているから探すのは簡単だった。そもそもネパールやインド圏にはきっちりとしたバス停というものはない。勿論いつも停まるポイントというのは決まっているのだが、日本のように看板が立っている訳でもなく、いわんや「到着予想時刻」なんて気の利いたものが有るはずがない。そんなバスの群れの中から何とかビールガンジ行きのバスを首尾よく見つけ出した俺達は4時間余り、車中の人となった。
道は思ったよりも良かった。インド〜ネパール間の道が良くない事は旅人の間でしたり顔で語られていることだが、例のチベットくんだりに比べれば全然問題なし。確かに路面の凹凸をバスはトレースしてゆくのだが、運転手の腕が良いのかそれともインドTATA社製バスの性能が良いのか、俺達はうたた寝すらしながら間も無く終わるネパールの旅を楽しんでいた。インドのタライ平原に至る景色はひたすら「タイラ」で、遠景には大きなヤシの木、そしてすれ違うバスの屋根には人が鈴なりに乗っているのがのどかだった。そういえばすれ違うクルマのナンバーがインドナンバーになっているなぁ、とかやたら検問があるなぁ、とか下らぬ事を考えて居るうちにバスはひなびた街へと入って行った。
言葉が分からなくとも、そこが終点だという事はすぐに分かった。インド人ともネパール人ともつかぬ人々でごった返す街。インド側から派手なトラックがどんどんやってくる。リキシャマンはバスの客から外国人を探し出すのに余念なし。そう、ここビールガンジは外国人が陸路インド入り出来る3つの街の1つ(実際にはそれ以上あるのかも知れないがあまりメジャーではない)だから、リキシャマンはそういう外国人相手の商売に燃えているのであった。案の定、俺達もその洗礼を受ける事になってしまったのだが、ここでホイホイ乗ってしまっては奴等を図に乗らせるだけだ。俺達はひとまず奴等をまいて、目の前にあったバラック風の食堂に逃げ込んだのだった。外国人慣れしているはずの店員は俺達の注文を理解できずにコーラしか持ってきてくれなかったのだが、まあそれでもこうしてクールダウンしてくれる時間が与えられるだけでもマシだった。先にも書いたが、リキシャマンの商魂としぶとさたるや、とても通常の日本人に想像できる程度のものではないからである。もし、大宮やら浦和の街を外国人が歩いていたらどうだろうか。大方の日本人は彼らを見て見ぬふりをし、商店のオジサンたちも別に積極的には売り込まないはずである。むしろ「来ないでくれ」と心の中でひとり祈るというのが本音ではなかろうか。よもやボろうなどとは夢にも思わないだろう。タクシーが無理矢理外国人を乗せようとする姿はまさに日本を除く南アジアや東南アジアだけにある光景だと思う。しかしここはインドネパール国境の街。いかに外国人から搾取するかという命題に忠実な男達が群れている所なのである。俺達の憩いの一時を破って店内に入ってくるヤツまで出る始末。
それでも結局国境まではけっこうな距離があるから1台のリクシャーに乗り、国境に向かう事にした。対向車(?)は牛車や馬車などが多く、本当にのどかなもの。距離にして2〜3キロ走っただろうか。(リキシャマンは5キロだと言い張っていたが)ようやくネパール側のイミグレーションオフィスが見えてきた。その先にはネパール側が建てた立派な門が聳えている。時刻は昼の12時半頃だったろうか。長かったネパール暮らしに別れを告げるべく、俺達はその素朴な建物に入ったのだが・・・寝てる。イミグレの係員が2人揃って机の上に足を投げ出して寝てる。余りの光景に度肝を抜かれつつも、ここで出国スタンプを押してもらわない事には後々トラブルの原因になる。まあこのまま突破しても誰にも咎められない雰囲気なんだけれども・・・。意を決して、俺達は彼らに声を掛ける事にした。「ハロー・・・」彼らは熟睡しているように見えたが、案外あっさりと起き出して悪びれることもなく出国カードを手渡し、ビザに「departure」のシールを貼ってくれた。この間、緊張感全くナシ。中国を出た時とは全く違う雰囲気で、荷物のX線検査すらなかったのだった。
かくして同じリクシャーに再び乗り込んだ俺達は、緩衝地帯を経てある橋に差しかかった。どうやらここがインドネパール間の国境らしい。何の変哲もない細い川にかかった橋で、橋の真ん中に線が引かれている訳でもなかった。まあ両国の国民はビザ無しで行き来しているので本当にのどかなものだ。橋の中程でリクシャーを停め、一応記念写真。でも、何だか線の無い国境は面白くない。
さても橋を渡りきり、いよいよインド領へ本格的に踏み込むこととなった。「ここでイミグレーションを受けるんだ」とリキシャマンがリクシャーを停めた所は本当に「・・・?」と言いたくなるようなバラック風の建物。目の前には50センチほどのドブ川が流れ、人気(ひとけ)も全く無いのだが確かにそこには「Immigration
Office」と書かれてある。暑さにヤラレ、いち早く手続きを済ませたい俺達はその建物の目の前に置いてあるボロい机の前で暫く待ってみる事にした・・・のだが、待てど暮せど誰も出て来る気配が無い。英語・日本語でしばらく適当に呼んでみると、出て来たのは「裸の大将」ルックの太ったオヤジ。寝起きなのが見え見えだった。「うーん、多分この人は店番みたいなもので、本当のお偉いさんは裏から出て来るんだよ。うんそうだ。そうに違いない。」と思っていると、そのオヤジが自らでかい帳面と入国カードを取り出して「書け」、そう。このバラックもこの大将もすべてインド政府がしつらえたイミグレーションオフィスそのものだったのである!ドブ川の微妙なニオイの中、のっけからインドの奥深さに触れた俺達はもう言葉も無かった。
リキシャマンに別れを告げたのはラクソウルの街中だった。多くの旅人が通過するだけのポイントなので全く情報がなく、俺達はとりあえず目に付いたホテルの看板を目当てに街を歩き出した。何故か道に敷き詰められている木の葉。そこここに落ちている牛糞。明らかに顔面濃度が違う人々の雑踏。そして芳香も悪臭もすべて渾然一体とした街の匂い。5キロ程度の移動で、確かに俺達は異国に入ってきたのだなと実感できた。路地の奥まった所にあるホテルに投宿し、俺達は初インドの感慨にふけった。
翌朝である。お約束通りの酷暑で目覚めると時刻はもう8時過ぎ。ここもまた窓無しのホテルだったので、朝の水シャワーが欠かせない。水シャワーといって眉をひそめる向きもおありだろうが、何しろここはインドである。水道水ですら30度以上はあるはずなので全く冷たさは感じないのだ。むしろもう少し冷たい水を出してくれと言いたくなるほどだ。そんなシャワーを浴び、荷物をまとめると俺達はすぐにバスステーションに向かった。次の都市パトナーに向かう為である。パトナーという街には特段見るものはないのだけれど、これからインドに入って行くためのゲートウェイとして行かない訳にはゆかなかったのだ。
例によってバスは簡単に見つかる。路上に停まっているバスのオヤジに聞くと1発で目的のバスに当たる事が出来た。しかしこの手のバスはある程度の乗客が集まらないと出発しないのが常識だ。20分。40分。すると、後ろの席に座っていた若い男が俺達に声を掛けてきた。何処に行くのかとか、何人だとかいうお決まりの会話の後、彼は突然こんなことを言った。「僕の父と姉はイギリスにいる。僕はインドなんか嫌いだからイギリスとか日本に行きたいんだけど、なぜか僕の兄弟でインドにいるのは僕だけ。僕の伯父が『インドには3つのSがある』と言うんだ。「Sunshine」「Shit」「Snake」・・・」つまり、インド嫌いのインド人なのだった。まあこういう輩にはこういって外国人に近づいて金を貸せという輩も多いので深入りはしないようにしたのだけれど、いきなり初対面の外国人に自分の国が嫌いだと言わせるインドという国にますます興味が湧いてきたのだった。
バスは再び平原を走った。パナソニックのテレビがインド映画のビデオを大音量で流し、全開の窓からはドライヤー並の熱風が吹き込んでくる。時折目にする街は日中の酷暑のためか人気もまばらで、壁に貼り付けた牛糞がやたらと目に付いた。ポロシャツの男達。サリーの女達。こんなに色が鮮やかな景色は久しぶりに見た。バスが途中のドライブイン然としたところに停まると、物売りがかしましい。巨大なキュウリを切って売る者あり、西瓜を売るものあり、インド風揚げ菓子を売る者あり。その中でも笑えたのが新聞売りだ。一見は普通の新聞・雑誌を売っているのだが、俺が外国人と見ると「20ルピー!」とか言いながらB6判くらいのエロ本をちらつかせてくる。これが―よくは観察できなかったのだが―結構なイヤラシさなのだ。サリーで乳出し、というのもなかなかオツだったんであるが、買うとどういう目に遭うか分からないのでやめておいた。インドにもそういう本があるのねぇ・・・。
そんなわけで午後3時頃には俺達はパトナーの町にいた。繰り返すが名所も何も特にない街。しかし移動の疲れから、俺達はここに2日留まる事にして、鋭気を養う事にした。こういう暮らしは至極単調になる。ネパール以来1日2食となっていたので食事の楽しみも3割減だし、何しろ泊まっていたホテルの周囲にはロクな飯屋がなかったのだ。あるにはあったのだがそこはホテル直営のお高いレストランだったり、「Air
conditioned」がウリのお高いレストランだったりで、何だか軟禁状態だったのである。
その間に俺達は次の目的地を考えることにした。ここまで来て目的地を考えるのも何なのだが、ここまでの旅路はすべてその調子だったんである。仏跡ブッダガヤーに行くか。それともタージ・マハルのアーグラーに行くか。それとも・・・。結局、距離の近さからブッダガヤーに行く事にして、またしてもバスの人となった。列車でも行けない事はなかったのだが、予約が面倒そうな事と、距離が近かった事からバスにしたのだ。
ブッダガヤーは暑かった。後から聞いた話だが、この時期のブッダガヤーは48度くらいまで気温が上がるのだという。道理で・・・。初日、リクシャマンとの闘いの末に中途半端な所で降ろされた俺達は宿を求めて彷徨わなければならなかったのだが、もう心臓がゴキゴキ言い出すわいくら水を飲んでも足りないわの大騒ぎ。1日3リットル以上水を飲んでいるのに2回くらいしかトイレに行きたくならないのだから、その凄さがお分かり戴けるだろう。もう100メートル先が1キロ先くらいに感じられるのだ。インドを始め、熱帯の人々を一概に怠惰だと決めつける訳には行かない事が良く分かった。実際彼らはかなり早朝から働き、昼はダラダラしてまた夕方から働き出すというサイクルで暮らしているのだ。実際、そうしなければ身が持たない事を俺は実感した。
ブッダガヤーはあの仏陀が初めて悟りを開いた土地として知られている。マハーボーディー寺院にはまさにその現場といえる菩提樹の木があって参拝者が絶えないし、仏陀が苦行をしたという前正覚山も目の前。街を流れる(乾期には伏流となっている)ネーランジャラー川の対岸には仏陀に乳粥供養をした少女スジャータの村・セーナー村があり、信心がなくともそれなりにそんな気分になってしまう街なのである。街中には様々な国の仏教徒が建てた寺があり、日本をはじめブータンやチベット、タイや台湾などの各国寺院がそれぞれの個性を競っている。
でもまあ、寺巡りなんてすぐに飽きてしまうものなのである。ましてこの暑さの中ではちょこちょこ移動する事もままならない。俺達の頭の中には未だにチベットの各寺院が消化不良のまま残っていて、まだしばらく寺はいいや、という気分だったのだ。そんななかで見つけたのが「印度山 日本寺」の中の図書館。宗教系が少し多めなのだが各種日本語書籍が揃っていて、しかも旅行者でも貸し出し自由。ここの蔵書に手塚治虫の「ブッダ」があったものだからもう大変。物語がまさにここブッダガヤーで展開されている漫画だったから面白くて面白くて、夫婦で観光も忘れて読みふけってしまったのは言うまでもない。しかしそれ、文庫版だったのだけれど、完結してないのよ・・・。確か13巻までしか置いてなくてさ・・。かなり消化不良だわ。
何だか本ばかり読んでいたような気がするブッダガヤーの5日間の後、俺達はいまこれを書いているバラナシにやって来た。ガヤー駅、6月10日深夜2時16分発の列車は余裕で1時間遅れ。遅れて着いた朝8時過ぎのバラーナスはまさにインド本番という趣だった。2等寝台車から降り立った瞬間にアヤシイ客引きにつきまとわれ、ほうほうの体で駅に出てみればリキシャマンの嵐。で、それを無視して振り切れば背後から「クルクルパー!(日本語)」の声。外国語を覚えるのにはスラングからの方が楽しいのは分かるが、どこでそんな日本語を覚えてくるのだろう・・・。そういやネパール人もクルクルパーって言ってたなぁ・・・。そんなわけで意地でもリキシャなんぞに乗るものかと思った俺達はひたすら自力でガンジス川方面を目指したのであった。
駅から3キロほど歩いただろうか。あまりガイドブックを見ると素人だという事が露呈してしまうので大体の勘を頼りに進んだのだが、これが一筋縄ではいかない。インドの道は東西南北碁盤の目、というわけにはいかず、微妙なカーブが連続していることが多いので知らぬ間に違う方角に進んでいたという事がよく起きるのだ。うーん。で、結局サイクルリクシャーに乗ってしまったのだ。乗ってしまえば何の事はない。ものの10分、20ルピーで繁華街・「ゴードウリヤー」に着いてしまったのだ。
日本人宿で有名な「プシュカルゲストハウス」にチェックイン。ここはまさに「民宿」の趣で、オフシーズンの今は宿泊客より家族の方が多い。日本人とインド人の共同出資らしく、「定礎」みたいなプレートにヨシダ某という日本人の名前が彫られているし、「のどぬ〜る」なんて日本の薬も置いてあったりする。日本人が残して行ったと思しき雑誌や文庫なども置いてあり、そこがまた嬉しい宿だ。でもまあフレンドリーなのはいいんだけど、いきなり赤ん坊を連れて主人が部屋に遊びに来たり、やたらショッピングに誘われるのはちょっと勘弁なんだけれども・・・。
バナーラス。ヴァーラーナスィー、あるいはベナレス(ベナレスは現地では通じない)とも呼ばれるこの街はヒンドゥー教の聖地。ガンジス川のほとりでは人々が沐浴に励み、その少し下流ではインド中からやって来た死体が荼毘に付されている。インドの写真といってまず出て来るのはこの街なので、皆さんにもきっと馴染み深い所だと思う。
先日、かねてよりの懸案だったガンジス川での沐浴に挑戦してみた。沐浴といえば早朝と相場が決まっているらしいので、朝5時半起床。腰巻きとTシャツだけの姿で川への道を歩いた。インドではこれくらいの格好で道を歩いても全く違和感がないのが有難い。腰巻き1丁で仕事をしている人ばかりなのだから当然といえば当然なのだが。早朝だというのに街中は早くもごった返していた。チャーイの露店、野菜の露店、そしてサイクルリクシャー・・・。人々が昼間ゴロゴロしている理由が何となく分かったところでガート(川の中に入りやすいように作られた石段で、この河辺には20以上のガートがある)に着く。何だかんだですっかり日が昇ってしまったので人は割と少なかったのだが、俺の目の前では30名ほどの人々が川に入っていた。頭まで水に浸かり、それから川の水で口を濯ぎ・・・とまあ作法はあるらしいのだが、とりあえず川に入ってみたのである。案外冷たく、そして臭いもない。見た目は緑色でアレなガンジス川なのだが、流石はマザーガンガーなんである。そのまま沖のほうに歩を進めれば、段々と身体が水に浸ってゆき、気分はすっかりインド人。周りを見れば、泳ぐ子供あり、川の水を壺に詰める老婆あり、そしてサイバーショットUで自分撮りをする日本人あり!(俺じゃないですよ)で、信仰心はともかくその様子が興味深かった。5分ほど浸かった後、ガートに戻るとインド人の兄ちゃんが「灯籠流しセット」みたいなものを売りつけてきた。「あなたの父・母・兄弟の幸福のために云々・・・」とか言っているので買って流してみる。50ルピーを側にいた宿の主人に負けてもらい、10ルピーなり。何なんだよ8割引。へてから川岸に上がるとオジサンに招かれ、夫婦で手を重ね合わせて念仏(?)を唱えさせられてから額に赤い印をつけてもらう。これがまた100ルピー。地元の人はもう2ルピーとか3ルピーなのに、何でじゃい。まあガンジス川の顔に免じて許してやるが、何処の国でもやっぱり宗教というのは儲かってしまうものなのだろうかと。
さて、そんなわけでバナーラスも8日目だ。明日は夜行でアーグラーに向かう予定。もう2週間以上インドにいるにも拘わらずペースが掴めないのはさすがインド、という他なかろう。それでもインドという国には筆舌に尽くしがたい居心地の良さ、みたいなものがある。2ヶ月の予定ではあるが、何故だかもう少し居そうな予感もする。インドが旅行者に半年ものヴィザをくれるのも故無きことではないのかも知れない。
2003年6月18日 インド ウッタルプラデーシュ州 バナーラス プシュカルゲストハウスにて
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